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【連作短編小説】「ジャパニーズ・フィフティ・ピープル」(金子 悟)

 二人の女性から翻弄されることなど、自分の人生には起こりえないと思っていた。
 地元の大学を卒業し、そのまま地元の加賀谷町役場に入庁するまで、女性には無縁の生活を送ってきた。
 それが入庁してようやく一年が経ったには二人の女性が自分の仕事や人生の大部分を占めてしまっている。つくづく不思議なものだと悟は思う。
 ただ問題は、それが決していい意味での翻弄ではないことだった。


「金子さん、三角さんからお電話です」

 火曜日の朝九時半。そう言って電話を回してくる先輩の目は笑っていた。
 来た……悟は自分の心臓がキュッとなるのを感じた。

「お電話変わりました福祉課の金子です」
「あら金子さんじゃないお久しぶり」
「はい」自分から指名しておいて『金子さんじゃない』もないだろう。それにあなたとは昨日話したばかりだ。と思うが口には出さない。「それで、今日はどういった……」
「それがね、ちょっと聞いてよ、また隣の家から妨害電波が飛ばされていて一一」

 三角の話はそれから一時間に及び、悟は会議があると嘘をついて電話を切らなければいけなかった。


 精神障害が疑われる三角から最初に電話を受けたのは三角が入居している町営住宅を管理する担当部署だった。
 最初は近隣住民への苦情として電話を受けていたが、話を聞いているとどうも何やら障害をお持ちで被害妄想があるのではないかということで、福祉課の悟に担当が回ってきたのだった。
 それ以降、三角には気に入られてしまったようで毎日のように名指しで電話を受けるようになった。
 電話対応自体は嫌いではないが、毎日一時間も妄想としか思えないような話や世間話を一方的にされるのは案外こたえたし、何より業務が滞った。
 それでも要件がないなら電話しないでくださいと言いきれないのが公務員の辛いところだった。
 結局、電話を受けた日は午後八時すぎまで残業して帰らなければいけなかった。


 九時前に家に帰ると、彼女からL I N Eが十二件入っており、悟はまた憂鬱な気持ちになった。

『ごめん、残業してて気づかなかった。今帰ったとこなんだ』

 短く返信するとすぐ既読になった。そのまましばらく返信はなかった。怒っているのだ。
 小林由季は悟の同期であり、初めてできた彼女だった。
 入庁してすぐにあった同期会で意気投合し、L I N Eのやり取りやデートを重ねて半年前から付き合っている。
 土日に会って、デートをして、セックスして別れる。そのような関係を続けていたが、どうも小林はそのような関係だけじゃ満足できないようだった。
 会わない日には毎日長時間の電話を求められたし、L I N Eはすぐに返事を返さないと腹を立てる。他の女性職員と談笑していれば嫉妬する。いわゆる束縛系の女子だった訳だが、それは悟が求める関係性とは大きく異なっていた。
 一時間後、小林から長文のL I N Eが返ってきた。
 仕事で疲れており全文に目を通す気になれなかったが、最後に書かれていた文章は嫌でも悟の目を引いた。

『週末は私の両親に会うんだから、ちゃんとしてよね』

 週末は小林の両親に会うためちゃんとしなければいけなかった。悟は深いため息をついた。


 水、木と同じく金曜日も午前中に三角から電話があった。
 いつも通りのとりとめのない内容で、三角もこちらの反応などお構いなしに話すので、悟が途中で自動応答するAIに変わったところで気づきはしないだろう。
 将来的にそのようなシステムが提供されるかもしれない、悟はそんなことを考えながら来客があったと嘘をついて電話を切った。時計は一時間以上進んでいた。

「金子くん、モテモテだね」

 係長のいつもの軽口にも返事をする気力が起きずに、悟は適当な愛想笑いを返した。


 小林の両親と会う約束は土曜日の夜だった。先に小林と合流して、少し早めに予約していたイタリアンレストランに入った。
 十分ほどしてやってきた小林の両親は四十代半ばくらいの感じの良さそうな人だった。

「はじめまして、福祉課の金子悟です」

 緊張していたのか、役場での所属まで自己紹介してしまい、席は笑いに包まれた。少なくとも、ギクシャクとした気まずい会にはならずに済みそうだった。
 注文した料理が来るまで、小林の両親は悟にいろいろと質問した。悟がそれに答え、小林はにっこり笑ってその様子を見ており、たまに口を挟んだ。


 料理が来てさらに話が進むにつれて、悟は小林の母に対し、ある違和感を覚えるようになった。
 その話し方やイントネーションが誰かに似ていた。そのことに気づくと同時に、悟は「あ」という声を出していた。
 小林の家族は不思議そうな顔をしていたが特に追求はされなかった。
 その小林の母の声や口調は、毎日のように悟に電話を掛けてくる三角にそっくりだった。
 もちろんそれは偶然だろう。小林の母が平日に他人を装って悟に電話をかけてくる理由がないし、そもそも小林の両親が住んでいるのは加賀谷町ですらないのだ。
 それでも、そのことに気づいた瞬間、悟は自分を支えていたものが消え去っていくのを感じた。ここが自分のいるべき場所じゃないという思いが急に強くなり、少しでも早くこの場を去りたかった。


「さっき急に口数が少なくなったけどどうして?」

 帰りの車の中で小林は言った。その言葉には悟を責めるようなニュアンスが含まれていた。
「付き合う前から実は君とは合わないような気がしていた」「一人の時間を大事にしたいんだ」「顔が好みじゃない」「企画課に配属されたからって僕を見下してるの知ってるよ」「もう君には愛情がないんだ」そんな言葉を全て飲み込んで、悟は「別れよう」とだけ言った。
 なぜ自分の方が泣きそうになっているのか、悟にも分からなかった。


 月曜日、出勤した時点で、悟は木曜日の午後くらいには疲れていた。
 日曜日は小林との話し合いに長い時間が費やされ、ようやく小林との関係を解消できる頃には日が沈みかけていた。
 小林と付き合い始めた頃に「同期と付き合うとろくなことがないぞ」とからかわれたことがあったが、その通りだと思った。
 職員数が二百人程度の職場で、これから何十年も小林と顔を合わせ続けるのは想像するだけで消耗した。
 ただ、それだけのことだ、と考えている自分もいた。結局のところ、そうやっていろいろなしがらみを作りながら生きるような生き方しか、自分にはできないのだ。


 その週、三角から電話があったのは水曜日だけだった。
 翌週は電話がなく、さらに翌週の木曜日にあった電話を最後に三角からの連絡は途絶えた。
 係長が言うには、こういうことはよくあるらしい。亡くなったり引っ越したりしていることもあるが、大抵は他のより良い依存先が見つかってそちらに移行するのだ。
 そういう意味では小林もまたすぐに新しい恋人を見つけて上手くやるかもしれない。
 二人の女性に翻弄された時期が唐突に終わり、悟は自分が一人取り残されたように感じた。寂しい訳ではないが、ふとした拍子に、小林や三角がいまどうしているか気になることがあった。
 ただ、今となっては彼女たちに対してできることはなにもなかった。悟がいまできることといえば一つだけだった。電話が鳴る。電話を取る。「はい、加賀屋町役場福祉課の金子です。




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