「にせものの心」が消えていくとき日常の思考は・確かな信頼の単純な根拠

普段働かせてると思っている自分の心が「外付けデバイス」のようなもので、ある言い方をすれば「にせものの心」であり、その奥に本当の自己の心がある……ということを私は近頃ライブ配信でよく話題に出し、解説もしていた(ライブ配信のアーカイブはYouTube「地球生活ひと休みカフェ」からどうぞ)。
その概念は私にとって新しいものではないが、自分自身の実感という意味では最近になって「本当にそうだな」との納得が深まっていたからだ。

日頃、活発に知覚して思考・感覚の反応を起こしている心のもっと奥に、あたかもその背後というか「背景」のように存在している自己があって、そちらが本当の自己なのだという認識が私に確かに定着しつつある。

その自己から伝わってくる感覚は、この私を通すと「静かな愛」と感じられ、ものごとへのジャッジがないので「観察者」と呼ぶこともできるが、だからといってただ平坦な、見ているだけの者というそっけない感じはない。
本来これが「私」であり、その表層に地球仕様の観念であるとかを色々乗っけてフィルター的に作動させ、「人間・エゴ」を作っている感じかぁ……と、今の私は理解している。

私は先日◆「のらりくらりな日常をアウトプットできるのか」という記事の中で、自分の日常の思考をもっと文章としてアウトプットすることにふれたばかりなのだが、それを公開した後には自然とこんな認識が訪れた。
「日常の自分の思考が今はもう『にせものの心』のつぶやきではなく、その奥にあるもの(本当の自己)と一体化しつつある視点なのではないか」

つまり、むかーしの古いブログ記事などはさておき、少なくともこのnote上ではこれまでのところ「自分自身の日常を描写するエッセイのようなものに何度チャレンジしても、思ったよりはかどらないものだなぁ」という感想を私は抱いてきたのだが、一方で、真我への目覚めを中心に据えた精神世界・スピリチュアルの分野に関しては筆が乗ることを自覚してきた。
その二つは本来、日常として同質のひとつの思考・姿勢であってよく、自己内の分離・分裂がなくなればなくなるほど自然にひとつの自己として「同じ視点だけ」に統合されてしまうだろう。
少なくとも、本当の自己のエネルギーに「整列された自己の表現」しか存在しなくなる。

それを思えば、日常の自分の思考をあえて書くことに乗り気になれない時期が続いたり、書いても継続しない体験だったりを繰り返していたのは、私自身がそれらを「つまらない」と評価していたことは間違いないが、そのつまらなさが「以前ほど、人間的な観念に基づく思考にエネルギーを注いでいない、注ぎたくない」という私の本心の結果であって、もはや日常から自分の関心は意識の鍛錬と「分離の幻想を終了させる」目覚めた状態の進行だけに大きく向いていたからだ。
ここまでは、過去にも記事内で同様の説明をしたことがあったように思う。

すると、人間生活を営んでいるといっても私の思考活動の中で「相応のエネルギーが込められてるもの」とはほとんど自分の内なる目的にフォーカスされた内容で、かつてなら同じその姿勢を持ちつつも生活の部分部分で発生させていた「この世の事象に対する考え、感想、意見、反応など」があったのだが、今ではそれすらも驚くほど減少していっている。
形骸的にいくらか残ってはいるものの、重要でないのでエネルギー的には「空っぽ・スカスカ」な具合だ。特別中身の詰まった何かなわけではない。

この状態は、自分の究極の目的以外「ほかはどうでもいい」のだと説明できるが、ネガティブな無関心状態ではなくむしろ「このひとつの目的に集中していれば、結果として他はすべておさまるところにおさまる」という深い信頼によるものなのだ。

この「信頼」こそ、これまでの自分に比べるとものすごく育ったという実感があり、確固たるものに切り替わったのを感じる。
それは自分の信頼を「向けているもの」が一体何なのか、そしてその状態における自分の立ち位置とは何なのかをはっきり認識できているからだ。

信頼は、私たちの「存在と創造」を理解するキーだが、「信頼したいけど、信頼できない」とか「信頼しよう、信頼しよう」と努力しているときには、

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