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【短編小説】ババロア

深夜のパン屋の店番の男は、店頭でヴァイオリンの練習をしている。その店のババロアを毎日求める男子学生はパン屋の店番の男は、店頭でヴァイオリンの練習をしている。その店のババロアを毎日求める男子学生はは片恋する気狂いの娘に、自分の体の一部を捧ぐ。

 テーブルを挟み、頬杖をついている男は目を伏せたまま話し始めた。私は彼の云う言葉を聞き逃すまいとして、少し身を固くしながらノートの新しいページを開き、万年筆を走らせた。

 顔の前に伸びた前髪とその下で表情を隠す眼鏡に邪魔をされ、彼の表情を読むことはできなかったが、私はぽつぽつと続く彼の言葉と声に崇高な優しさというものが滲んでいるのを見たような気がしていた。


「……僕はその頃大学生で、毎日夜遅くまで研究をしていて、家に帰るのはいつも夜半過ぎでした。

 当時の最寄り駅というのがとても旧い建物で、煉瓦作りの駅舎には地下街があって、とても薄暗くて雰囲気のある場所だったのです。
 その一番奥には古ぼけたガラス張りの小さなパン屋があって、そこはパン屋のくせに終電を回るくらいの時間まで開いていたから、僕はよくそこで翌日の朝食のパンとカップに入ったババロアを買って帰っていました。

 薄暗い照明の下で、そんな夜中にはお客はいつも僕だけでした。
 店主はいつも店の奥でヴァイオリンの練習をしていて、レジに商品を置いて声をかけると演奏の手を止めて清算をしてくれました。彼の置いたヴァイオリンの向かいには椅子が置いてあって、娘さんだろう十六歳くらいの少女がいつもぼんやりと座っていました。
 お金を払って店を出る折にふと振り返ると、僕を見ているその娘と目が合うのです。彼女に軽く会釈をしてお店を出る、それから帰宅をするのが当時の僕の日課になっていました。

 その店のババロアは真っ白で牛乳からできた味がして、とても美味しかったのです。
 ほんのり甘くて、柔らかくてなめらかに口の中で融けて消える感触が好きでした。店の奥に座る少女はあのババロアに良く似た肌をして、とてもきれいな娘でした。いつも長い睫毛を伏せて、視点の合わないぼんやりとした表情をしていたのだけれど、その表情が人形のようで本当に奇麗でした。
 だから僕はいつも店を出る時に彼女に会釈をする際に、すこし照れたような嬉しい気持ちがしていたものでした。でも彼女は一度も僕の会釈に反応を示すことはありませんでした。挨拶も、微笑みすらせず、店を出る僕を黙って視線で追うだけでした。

 ある日、いつものように店の重い硝子の扉を押し開けると、ヴァイオリンを弾いている筈の店主の男が居らず、カウンターの奥に彼女が一人ただぽつんと椅子に座っていました。
 最初は閉まっているのかと思いましたが、いつもの通り看板は掛かっていたし、店内の木製の棚にはあたたかな気配を残したパンが並べられていたから、僕は買い物をして帰ることにしたのです。

 いつもの通りにパンとババロアを一つずつカウンターの上に置くと、彼女が椅子から立ち上がり清算を始めました。
 僕は些か驚きました。彼女が椅子から立ち上がる様を見たことがなかったから、半ば本当に人形ではないかと信じていたのかも知れません。

「百八十円です」

 抑揚のない細い声で彼女は云いました。
 彼女が初めて声を出したこと、白痴のような印象の少女がちゃんと接客をできていることに、僕は再び驚きを感じました。尤もそれは店主の男が毎日僕に云う言葉だったから、毎日見ている彼女が真似していただけだとしても不思議はなかったのですが。

 僕は黙ったまま彼女の掌に百円玉を二枚置きました。彼女はそれをレジスタに仕舞い込み、パンとババロアを裸のままで僕に手渡しました。釣り銭が返される気配はなかったのですが、僕は何も言う気にはなりませんでした。

「ねえ」

 おもむろに彼女が口を開きました。初めて正面から見る彼女の顔は、長くて黒いまっすぐな髪と切り揃えられた前髪と、その下の真っ黒な眼が印象的で、肌はやはり真っ白でした。近くで見ても彼女は人形のように希薄な佇まいのまま、無機質な存在でした。

「毎日、ババロア買ってるでしょ」

 彼女は含み笑いをして言葉を続けました。僕は初めて見る彼女の笑みに内心圧倒されながら、「ええ」とだけ応えました。

「あたしもあのババロア、毎日食べてるの」

 僕は(だからそんな肌をしているんだ)と納得し、「ええ」と再び応えました。

「毎日ババロアばっかり食べているの。毎日ババロア。朝も昼も夜もババロア。」

 彼女の表情はどんどん色を強めていました。眼は大きく見開かれ顔に不自然に浮かべられた笑みは、先ほどの虚弱な存在とは別のもののようでした。

 戸惑う僕の返事など待たずに、彼女は言葉を続けました。

「だからあたしの体は全部ババロアでできているの。髪も顔も腕も首も脚も。でもね、一番似ているのが白目なの。あたしそれに気がついたの。そっくりだって、ババロアに。あたしの白目はババロアでできていて、食べるときっとババロアの味がするんだって」

 僕はただ黙って、目の前で喋り続ける少女の顔を見つめていました。見開かれた眼に覗く白目は本当に真っ白で、ババロアによく似ていました。この少女は狂っている。それは多分間違いないと思いながら、僕は少女の存在に惹き寄せられていたのです。

 少女は急に喋りすぎたのか、そこで一呼吸を置いて、さらに喋り続けました。

「あなたも毎日ババロアを食べているなら、もう体がババロアになり始めている筈よ。体の中で一番にババロアが結晶になるのはね、やっぱり白目なのよ」

 そんなことがある訳はないとは分かっていたのです。しかし僕は「そうかもしれないね」という言葉を返していました。

 返答を受けて少女は喜んだ、と言っても良いのでしょう。
 満面の笑みを顔一杯に浮かべて、もはや眼の焦点は合っていなかったのだけれど、それでも彼女は奇しさをたたえて美しかったのです。僕は馬鹿げていることを頭では承知しながら、彼女の云う言葉に一切抗えない自分を傍観していました。

「でしょう?! やっぱりあなたもそう思うでしょう?! ああやっぱり!」

 彼女は狂ったように喜んでいました。彼女はただ美しくて、僕はそれを見ていることだけで精一杯で、他のことなど思い出せもしなくなっていました。

 彼女はおもむろに僕の手を取って、僕を見上げて云いました。

「おねがい。あなたの眼を、あたしに頂戴。あたしの宝物の銀色のスプーンできれいに掬ってあげるから。残さずきれいに食べてあげるから。あなたの眼はとてもきれいだから、おねがい」


「……それで、あなたは両の眼を、失われたのですか」

「ええ」男は頬杖をついたまま、応えた。

「断ることも、逃げることもできたでしょうに」

「——そんな考えは浮かびませんでした。ただ、彼女を喜ばせてあげたくて。喜んでいる彼女を見ていたくて。それ以外のものをあれほどに強く「見たい」と思ったことがなかったのです。他のもの全てを見ることができなくなったとしても」

 私には、彼の気持ちがわからない、と思った。彼はこんな話をしながらも終始優しい口調であり、私は先ほど感じた崇高ですらある優しさの気配の実態を、疎外を以て見つめていた。

「それは、恋だったのですか」

「さあ、どうなんでしょう。彼女は僕の眼を物欲として欲しがったんです。物欲を恋に含めても良いのなら、恋と呼べるのかも知れないですけどね」

 私と彼は再びテーブルを挟んだまま無言で向かい合った。手には冷めたコーヒーのカップが握られ、灰皿の上では火をつけられたままの煙草が一本、燃え尽きようとしていた。

「お話、有難うございました。本になったらまた連絡差し上げます」

 私はそう云って席を立とうとした。その時に彼の掌に握られた黒い石に目が留まった。

「それは?」

 彼は少し照れたような風にはにかんで「ああ、」と掌を開いて見せた。

「お守りにしているんです。さすがに黒いところは固くて食べられなかったので」


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