犬尾春陽
過去文学フリマで販売した小説をアップしていきます
一、リリー 「幾分、変わった物件ではありますが、賃料は破格の安さになっておりますし、お客様の御希望には添えるのではないかと」 くるくると渦を巻く髪を顔の前に垂らした仲介業者の男は、机の上の写真を見下ろしたままで私にそう告げた。 「……変わった?」 「いえ、変な意味ではないのですけど」 「どういう意味ですか?」 仲介業者の男は唇の両端に力を込めた。私はその動作に滲む彼の動揺を黙ったまま見守った。 「……ええとですね、難しいな……。変な物件ではありませんよ。一度住ん
その建物は、人けのない青山の裏通りにあった。 細い路地から見上げるそこは、地図の住所と同じ場所にあるものの、思い描いていた場所とはだいぶ違っていた。 傾きかけた廃屋。窓ガラスにはひびが入り、テープで補強された跡がある。こんな都内の一等地にありながら何十年も放置されていたようなその建物の入口には小さく「蝉」という文字が掲げられていた。 その前で歩みを止め、半信半疑でその建物を見上げる。 蔦が絡まり、葉が枯れて落ちて、残された乾いた蔦だけが壁を雁字搦めにして支えている
耳鳴りのするような静かさが沈殿する暗闇の中で目を醒ました。 枕元に置きっぱなしにしていた携帯電話を開き、時刻を確認すると、日曜の午前二時を回ったところだった。液晶画面の小さな灯りをもとに、体を起こして部屋の電気を点ける。 帰宅してスーツすら脱がずに、ベッドに倒れ込んで眠っていたらしい。 窮屈さのせいか体の節々に軽い痛みを覚えた。結構な値段のしたライトグレーのスーツはしわくちゃになってしまっていて、小さく溜息を吐く。 朦朧とした頭が次第に、騒いでいた濁りを音もな
十年近く経った今でも、Мさんのことを時々思い出して考える。 元気にしているんだろうか。 今もあんな風に退廃的にお酒を飲んで、悲しそうに一人で夜の街の中をふらふら歩いているんだろうか。 それとも何かを諦めて、誰も知らない場所で仙人のように静かに暮らしているんだろうか。 * 十二月の風は冷たく、指先なんてとっくに感覚がなくなってしまっていた。顔を赤らめて酔った大人たちが、繁華街の中を笑いながら歩いていく。 「お土産にケーキいかがですかー」 バイトの制服のミ
少女のイメージがある。 制服の重たげな紺色のスカートの裾を、はためかせる白い脹脛。 夏服の白いブラウスから伸びた華奢な腕。細い首。背に垂れた長い髪……。 少女は廊下を歩いて来る。 僕はうつむき、ただ身を縮める。顔を正面から見ることなどできない。 擦れ違う。 僕は下を向いたまま息を止める。動悸に気付かれてしまわぬように。 少女は僕の存在など気にも留めず、歩いて行く。 僕は安堵し、絶望し、彼女の後ろ姿を見つめる。 * 降車駅のアナウンスを遠くに覚え
◇ 真っ白い夏の光の差し込む、白く塗られた寒々しい部屋で、私の弟は白く乾いた脆い骨になってしまった。 彼の姿が、現実に目の前から失われてしまって、初めて、私はリンデンが死んだということを、直視しなければいけなくなった。 木箱に横たえられたその姿は、私が大好きだった首筋を覆う柔らかい毛も、誇り高くぴんと立った耳も、細くも力強かったまっすぐな前足も、凛とした静かな横顔も、一緒に駆け回っていた頃の姿と何も変わらなかった。 その体は、固く冷たくなってしまっていたけ
雨の音が世界を埋める。 電灯を点けなくても、かろうじて室内は見渡せる。 薄暗さが夜の予感を伝えながら、静かに時間は沈殿する。 白と黒の鍵盤の上、すっと差し出された華奢な指が踊り始めると、視界に色が付いたように見えた。 指は踊る。 迷いなく間違いのない鍵盤を、瞬時のうちにどうやって選ぶのか、私はどうしてもそれが不思議だった。 息を飲んだまま、私は指が踊る様を見ていた。 白、黒、白、白、黒。 ものすごい速さの中で、音階を刻み、重ね、流れるように『音楽』は生ま
◇ 日光が怖い、と思い始めたのは、いつ頃のことだっただろう。 日焼け止めを厳重に塗らなくてはいけない。もし塗り残したり汗で流れたりしたら、その部分だけ醜く黒ずんで、嘲笑の対象になる。 「あの先生、顔と首の色が違うよね」 そう言って笑う同級生の声が耳の中で響く。 「顔ばっかり白く塗ったって、腕とか黒いじゃん」 「無理しなくてもいいのにね」 今考えると、あの教師は実際よりも白く見せたいがために明るい色のファンデーションを顔だけに塗っていたのだろう。ただそれだけのこ
その病室では、静寂の中にいつもどこからか細く水の流れる音が聞こえておりました。窓から月の光が差し込んでいる夜に、私は身を固くして、先生の指先がゆっくりとなぞる私の足先をただじっと見ていました。 ――親指、足裏、くるぶし、爪、足首、甲、骨、窪み。 時刻は既に夜半を回っておりました。 先生の顔にかかる少し長い前髪が、差し込んだ光に透けて揺れていました。電灯を点けなくても月は十分に明るく、うつむいた先生の顔は影になって見ることはできなかったのですが、先生の繊細な指が私の
◇ 薄暗い部屋の奥、控えめに灯されたライトの下で、白いフリルのブラウスの肩に切り揃えられた黒い髪が揺れる。 私はカウンターに肘をついて静かな表情を崩さぬよう、青年が一呼吸の後に歌い始めるのを見守った。 無機質な作り物のような白くて長い指がギターの弦を滑り、まるで猫の子供をあやすように擽る度、楽器は甘く丸い音色をこぼした。 体と呼吸に従って、しっとりした黒髪が流れる。艶と重さのある黒い絹糸みたいだと感じる。 水分も、色も、とうの昔に私が失ってしまったものだ。
◇ 先生と目が合うようになったのは、少し前のことでした。 数学の成績の悪い私を、疎んでいるのかと初めは思いましたが、私が気付けばすぐに逸らす先生の視線に、人を疎む時にある悪意や嫌悪は伴っていないようでした。 ええ、私も学校生活に慣れていますから、分かります。 人の悪意や嫌悪の伴った視線は、目を上げて確認せずとも、薄ら寒いような気配になって感じられます。 私たちの年頃は皆、そうじゃないでしょうか。そんな視線に鈍感でいられるほど、私たちの暮らす世界は安らかで平和なも
◇ 午前三時を回ると、弛緩した空気がファミレスの店内を重くさせ始める。 木曜日の午前三時。見回してみると広い店内に居るのは、スーツのままテーブルに突っ伏して眠るサラリーマンが数名と、居場所がなさそうに身を寄せ合う老夫婦。携帯を覗いて笑いあっている飲み屋で働いているらしき化粧の濃い女の子たち。テーブルを囲んでカードゲームに興ずる大学生だろう男の子たち。そして私たちだけだった。 電車の終わった平日の夜に、ファミレスに溜まって朝を待つ人々には、それぞれ理由があるのだろう。仕
◇ テーブルを挟み、頬杖をついている男は目を伏せたまま話し始めた。私は彼の云う言葉を聞き逃すまいとして、少し身を固くしながらノートの新しいページを開き、万年筆を走らせた。 顔の前に伸びた前髪とその下で表情を隠す眼鏡に邪魔をされ、彼の表情を読むことはできなかったが、私はぽつぽつと続く彼の言葉と声に崇高な優しさというものが滲んでいるのを見たような気がしていた。 「……僕はその頃大学生で、毎日夜遅くまで研究をしていて、家に帰るのはいつも夜半過ぎでした。 当時の最寄り駅
◇ 考える、ということは、大分昔に止めてしまっていた。 僕は、ただ、見ているだけだ。この自分の目の映すものを見る。何も思わず、何も考えず、ただそれを、受け止める。 考えるのを止めてから、どれほど日々を暮すのが楽になっただろう。愚鈍だと笑われているかもしれない。馬鹿だと思われているかもしれない。だからって、それが何だというんだろう。そんなこと、どうだっていい。 僕は、ここに居て、自分の目が映す『日常』をただぼんやりと眺めている。そうやって時間は過ぎてゆき、僕をい
◇ 一、 疎遠になっていた伯母が私を訪ねて来たのは、景色の全てが白い光に溶けていくような八月の午後だった。 庭の端にある水道にゴムホースを繋げて、縁側の向こうに広がる雑草が伸び放題になった小さな庭に水を撒いていた私は、玄関先で鳴らされたブザーに暫く気付かなかった。 「ごめん下さぁい」 荷物が届く予定も、知人が訪ねてくる約束も、ましてや気安く遊びに来る友人もいない。 初めはその耳慣れない甲高い呼びかけが隣家に向けられたものだと勝手に思い込んだまま、私はホースの
◇ 一、下宿 一年間の浪人生活の後、僕は志望の美大に合格することができた。 問題は、東京にあるその大学に通うためには下宿先を探さなければならないということを、それまで受験のことで頭がいっぱいだった僕は見事に失念していたということだ。 進学が決まり、我に返った三月の初めには、大学近くの物件は埋まってしまっていた。 大学近くの不動産屋に何件か当たってみても、どこも 「近い部屋は埋まっちゃいましたねえ。予算に二・三万上乗せするか、幾つか離れた駅でしたら見つかると思