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つまりもっと大胆に「いや」は「いや!」って言ってちょうだい!!!

大学生の終わり頃、少しだけ学生相談室というところに通った時期があった。
理由としては、その時期、会話をすることについてわからなくなってしまって、うまく声が出せず、こりゃきついなーという感覚が続いていたから。無料(正確に言えば学費を払っている)だし、行ってみようかなと思い、2週間に一回程度、50分間心の専門家の方とお話ししていた。


話をしていく中でわたしが気づいたのは、「自分が常に潔白でありたい」という気持ちがやたら強いということだった。
常に潔白というのは、要するに自分が悪い人になりたくない、ということで、悪い人になることが許せないという感覚にも近かった。


例えば、友だちが悪気なく言った言葉にすごく嫌な気持ちになったとして、一般的にはそのことを誰かに「ねえ聞いて!」と愚痴をこぼすのかもしれないが、そうすることがわたしには難しい、ということだ。正確に言えば、そういう話をできる人もいるのだけれど、ものすごく限られた人にしかできない。
なぜできないのか?というと、愚痴をこぼして、その愚痴がどこかで漏れたりバレたりして、「悪い人」になるのがめちゃくちゃ怖いから。もうとにかく、そういうことばかり恐れてきた。常に、誰が見ても綺麗で、潔白で、悪くない人間でありたかった。その「誰が見ても」には自分も含まっているので、自分から見ても綺麗な人間であろうと躍起になっていた。やりすぎていると思うし、ちょっと気持ち悪い。
結果、たくさんの人との間に薄い壁ができた。わたしは本当のわたしの声が出せなくなって、苦しくなっていた。


最近、たまにSNSで「職場の人には自己開示をするな!」という発言を見かける。自己開示することで、話が膨らんでありもしない噂を流されたり嫌がらせをされたりすることがあるから、ということらしい。それのコメントにはたくさんの賛同の言葉がかけられていた。

言いたいことは死ぬほどわかる。みんな噂話大好きだし、そしてそれはゲスかったり世間からずれていたりすればするほど面白おかしく広まる。だから自己防衛としてそもそも自己開示をしない、というのは、まあ間違っていないのだと思うし、自分のことを完全に知ってもらいたくない人はそうするべきなのだと思う。



でも、わたしは最近、そこまでして綺麗な自分でいる必要があるのかなあと思う。そんなに綺麗な人間を誰が求めているんだろう。
わたしがおもしろくて話したいなと思う人間は綺麗じゃない。泥臭くて、嫌なことがはっきりしていて、それを真っ直ぐ教えてくれる人がわたしはすごく好きで、それは結局「その人のことを本当に知れている」という感覚があるからだと思う。
逆に言えば、綺麗すぎる人は「その人を本当に知れた」という感覚がない。どこまで話しても上澄だけを掬うような気持ちになって、悲しくなる。
そして多分わたしは今まで、そういう人だったのかもしれないな、と思う。



最近、中村佳穂の「アイミル」をおすすめしてもらって聴いているんですが、その中の歌詞に「つまりもっと大胆に『いや』は『いや!』と言ってちょうだい」というのがあって、そうそうそう!となりました。人との関わりで潔癖になって、言いたいことも上手に言えないのは、多分苦しくてもったいないよ。そんなことより、多少の泥で怯えない強さを。その泥を笑い合える誰かを見つける喜びを。怖がりは惜しい気がするよ!


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