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傷つけること、傷つけられること

傷つくのと傷つけられるの、どっちの方が嫌か、と言われると、うーんと悩んだ果て、傷付ける方が嫌いかもなと思う。

傷つけられる、というのは外部からの傷で、そういうのは治癒しやすい。刺さった棘を取り除いて丁寧に手当てをすればいいからだ。友だちと話したり美味しいものを食べたりしていくうちに、傷口はゆっくり塞がっていく。

でも、傷付けるのは駄目だ。棘をもっているのはわたしであり、その棘を出すときに自分も傷つく。傷の原因がわたしの内部にあるから、自分が存在している限り、いくらでも傷つき続けることができる。
今、アニメの呪術廻戦を観始めたのだが、体の中に呪物を取り込んでいる主人公に対して若干のシンパシーを感じずにはいられない。わたしの体の中には呪物がある。
そして、それに耐えうる器をわたしはもっていない。


だから極力誰も傷つけないように生きたいと思っている。傷つけると傷つくのだ。自分の未熟さとか愚かさとか醜さが傷つけるという行為で露呈する。それがとてつもなく、悲しくて怖い。
それでも、人は生きている限り、傷つけてしまう瞬間がどうしたってある。


生きることにはルールがなさすぎる。今いいとされていることが明日いいとは限らない。それはすでに歴史が証明している。80年ほど前では人を殺すことは正義だった。国のために死ぬのが美しい死だった。でも今は違う。誰も殺しちゃ駄目だ、国のために死ぬなんて馬鹿げている。
正義はその場その場で変わるし、その人その人で違う。だから、そもそも何も傷つけないように純白で生きていこうというのがナンセンスなことである。


22年間、きっとたくさんの人を傷つけてきたと思う。それと同じくらいきっとたくさん傷つけられてきた。
でも、わたしは傷つけられたことはそんなに覚えていない。傲慢な言い方をすれば、ゆるしている。その時にはそういうことしかできなかった事情がきっと誰にでもあったのだと思う。
だから、おんなじように自分のことをいつかちゃんとゆるしたい。


自分も一人の人間であり、そういう意味では広義の他人だ。でも、一番近い他人だからこそ、丁寧に接していかなきゃいけないんだとちょっとずつ思えるようになってきた。
そういうこともあるじゃない?あったのよきっと、忘れちゃってるだけで。大丈夫よ。そうやって、自分に声をかけていきながら生きていきたい。


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