山内家土佐入り後の掛川 2 二の丸美術館・資生堂アートハウス【谷口吉生】
サラッとまとめるつもりだった掛川編。興味深いトコロが多く、気が付けば三部作に(アレもコレもと欲張りすぎ)。全体像の見積もりが甘過ぎなのは、旅行計画と同様です。
太田家
太田氏は掛川藩最後の藩主家で50,000石。正確にはその後徳川家達(1863-1940)が、幕末の江戸開城後に隠居した徳川慶喜(1837-1913)の後を継ぎ、駿河・遠江70万石を与えられます。そして太田家は上総の国(千葉)へと。ここにきて家康以来の徳川領となり廃藩置県へ。
最後の藩主、太田資美(1854-1913)は11代目です。彼らのご先祖は江戸城を築いたあの方。徳川家康ではありません。
ご先祖の太田道灌(資長:1432-1486)です。室町時代に関東を統治したのが鎌倉公方。公方を補佐した管領上杉氏の一族扇谷上杉氏の家宰をつとめたのが太田氏。有能過ぎた道灌は、主君にその能力を恐れられ謀殺されてしまいます。無念。
太田氏の品々を寄贈された太田松子さんは、トーハク所蔵品の寄贈者でも目にします(同一人物か不明)。
掛川由来の品々は、天守・御殿での展示に加え、市の美術館にも。
掛川市二の丸美術館
掛川市二の丸美術館は、現存御殿や茶室に隣接する掛川城内二の丸にあります。1998年の開館で掛川出身の実業家2人からの寄贈、木下コレクション(細密工芸品)と鈴木コレクション(近代日本画)がベース。
掛川城ズバリの歴史系企画展も開催されています。
掛川市は、徳川家と武田家が死闘を繰り広げた高天神城とその攻撃のための付城・横須賀城を掛川城とセットにしてアピールしています。
ただし武田方だった高天神城は徳川方に落とされているので、難攻不落は表現としてはどうなんでしょうか(落ちたんちゃうの的な)?
そして近くには現代アート系のミュージアムもあります。
資生堂アートハウス
静岡県掛川市下俣751-1
さわやかが2店舗
開館は1992年。1872年創業以来の歴史が詰まった広告関係資料や製品がズラリと並びます。収蔵品は10万点以上。
企業資料館から西のアートハウスへ。
左側の土手はアートハウスの建物の一部。
シャープな外観だった企業資料館と比べて、アートハウスは曲線。
エントランス前にはイタリアの人のペリクレ・ファッツィーニ作「後脚で立つ馬」。世界的にはフェラーリのエンブレム「跳ね馬」が知られていますが、ペリクレの作品は頭が横向いているのが微妙。パクリ?いえオマージュでしょうか。
資生堂アートハウスは1978年開館で、2002年リニューアル。
収蔵品は1970年代以降の日本人作家の手によるものを中心に約1,600点。
設計は谷口吉生(1937- )さんと高宮眞介(1939- )さんの共作です。
受付の方に建物のパンフはありますかと尋ねると、上記のものを頂きました。平面図と写真が数カット掲載されたもので、ありがたく頂戴。希望する変態的な人がまあまあいるのでしょう。
資生堂らしい展示といえば、
雨が降ってる感が表現されている文字。
そして定期的に開催されているグループ展
14代 今泉今右衛門(陶芸:1962- )、中條伊穂理(漆芸:1966- )、3代 吉羽與兵衛(金工:1968- )、安達征良(ガラス工芸:1969- )の4名による分担制作です。60年代生まれの面々による、古そうに見えて新しいモノ。
三河・遠江で発展した自動車産業の原点は織機の自動化から。織物があるから織機もある。
谷口建築の違和感
谷口さんは多くのミュージアム建築を手掛けられていますが、ここにはアレがありません。また他館とは少し異なる印象。
谷口建築を3選
谷口建築で印象的なのはスッキリした直線ラインとほぼ必須の水盤。土門記念館は拳湖と名付けられた人口池(湖というには小さいような)が、金沢建築館には見当たらないなと思ったら、父・吉郎さん設計の迎賓館和館を再現した2階部分にドーンと。
資生堂アートハウスはその文脈上にありません。初期の設計でもあり共作なので、谷口建築として括るのは高宮さんに失礼だったかも。
土手が気になり回り込みます。
土手に階段があったので上がってみます。
図面を見ると収蔵庫は土手に食い込んでるか微妙。
土手の意味は不明(聞けばよかった)。上部は立ち入り禁止かも(表示はなし)。
掛川市役所(1996年竣工)には大きな吹き抜けがあり、階段状になったオフィス部分が独特です。屋上の扇はドームになっていて、その下は議会があるらしい。
期せずして三部作になってしまった掛川編。
いい塩梅ってむずかしい。
写真は雄弁に語ることがありますが、情報を正確に記録する(伝える)ためには文章力も必要です。そして全体を構成する能力にバランス感覚。
結論としてはいろいろ足りない(笑)。
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