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オオサンショウウオと伊勢商人 三重県総合博物館 津市

三重は境界線がボンヤリした地域。東海地方というくくりでは愛知や岐阜、静岡と同じグループ。一方、中部地方ではなく近畿地方に入っていたり。
東日本と西日本の境界線は岐阜の関ヶ原あたりに引かれるようですが、三重はどちらなのでしょうか? 言葉は関西のような印象ですが。

伊勢の国の大半を領有する津藩主となった藤堂高虎とうどう たかとら(1556-1630)は戦国ど真ん中の人。豊臣家そして徳川家とも良好な関係を築いた人で築城名人。津の基礎を築きましたが、その足跡と出会えるミュージアムは少ない。
そこで切り口を変えてみると、いろいろ面白いモノが見えてきます。
 

藤堂高虎像 津城跡 地味な場所にいます




新設される県立のミュージアムは、敷地の関係なのか県庁所在地以外にあるケースが多いような気がします。三重県総合博物館は県庁所在地の津市にあります。三重県の中心に位置する津市の人口は270,000人、県内第2の都市です(最大は四日市市で305,000人、中京工業地帯の一角)。
古来、安濃津と呼ばれた現在の津市は、その名が表すように港を抱えた交通の重要拠点でした。


三重県総合博物館

前身となる三重県立博物館は、建物の老朽化のため2007年に閉館。THE昭和な博物館だったように記憶しています。覚えているのはオオサンショウウオのみ。ちなみに旧建物は津駅の近くになぜか現存しています(閉鎖中)。
再建計画には紆余曲折あったようですが、2014年に現在地に移転して三重県総合博物館として開館。愛称はMieMu(みえむ)。
県立博物館としてはスタンダードなミュージアムですが、好みの歴史系はやや手薄な印象です。
設計は日本設計によるもの。高知城歴史博物館(高知県高知市)、ゆかしの杜(東京都港区郷土歴史館)や山種美術館等(東京都渋谷区)を手掛けています。


モダンで奇をてらわないフツーなミュージアム

三重県津市一身田上津部田3060


  

受付でチケットをもらうと、子連れのお母さんがやって来ました(階段を上がらせるのに苦労していた)。連れているのは幼稚園児ぐらいとヨチヨチ歩きの2人。お母さんが財布を出すのに手こずっていると、幼稚園児はテンション上がって一人でダッシュ。それを追いかけるヨチヨチ。もはや糸の切れたタコ状態。お母さんが泣きそうなカンジで呼んでいたので2人を確保しようかなと思ったら、幼稚園児は急にUターンしてヨチヨチもこれに追従。博物館は年齢的にまだキビシイのかな? 見ている分には面白いけど。


パンフ 2023年版


ミエゾウ

展示室の前にはチビッ子がえらく食いついていたミエゾウの骨格。今度は動かなくなり、またしてもママ大変。


全長7.6m、体高3.6mのサイズが東北から九州にかけていたそうです。300万年前のハナシ。マンモスよりデカいって。
 

化石が県の石! そもそも花とか鳥みたいに県の石があることを知る。
 

ミエゾウ、アジアゾウ、アケボノゾウの図と骨格

こちらは鈴鹿山脈の向こう側、滋賀県多賀町で発見されたアケボノゾウから復元された骨格。ミエゾウはデカすぎ、アケボノの倍以上のサイズ。


そして展示室へ。

三重県の各種データ

いろんな数字が並べられていますが、海女さんの人数978人が目を引きます。全国には2,174人らしく、半数近くは三重県人。
 

安濃津湊

高虎は四国の今治築城で、防御と水運の両面に卓越したセンスを見せています。伊勢・伊賀の加増転封では津城を拠点にしたのも必然でしょう。


地元の文化、お伊勢参りの御師おんしのコーナー。御師とはひらたく言えば、神社の旅行会社部門。富士山周辺にもいたようです。

御師の屋敷兼宿には、庭や宴会場に神楽も完備。 

手前は神楽、中は広間(正装して食事する)、奥は客間。至れり尽くせりだったらしい。

食事は豪華

大義名分は伊勢神宮にお参りするコトになっていますが、オプションの多い庶民のツアー旅行です。

なんだかモヤモヤするのですが、信仰心をメシのタネにする事を神仏はお赦しになるのでしょうか? それが俗世ってモンでしょうか(笑)


さてみえむの主役、大きな両生類です。

オオサンショウウオ

カモフラージュしてます ほぼ動かない


水が濁っていたら、まず分からないでしょう

オオサンショウウオの名前はさんちゃん。1992年に名張市(三重県西部)の川で発見されて博物館で保護されています。少なくともオーバー32才。なんとオスかメスかは不明。国の特別天然記念物です。岐阜県以西に生息するそうですが、やはり境界線としての三重は微妙。名張なら西でしょうけど。

かなりデカイ


屋外広場にもいます コチラの方が分かりやすい


受付のさんちゃんはマスク仕様でした。ショップで販売されているさんちゃんとは別モノです。ハンドメイドでしょうか。


受付の方にマスクを外してもらいました。魚をくわえてます。本物のさんちゃんは、1ヶ月に100gほどの魚3匹を丸呑みしているそうです。そんなもんで足りるのでしょうか?


三重県のオオサンショウウオ愛の深さはコチラにも。

入館チケット 2007年以前版

大人40円とイラストのゆるさに感じる時のながれ。

入館チケット 2023年版

令和版もオオサンショウウオをデザイン。アイコンとしては申し分ない。


広場には平日でもチビッ子が。あのお母さんはココを目当てにしていたのでしょう。チビッ子たちにさんちゃんの魅力が理解できるのかは分からない。


再び展示室へ。


伊勢商人

展示室でかなりのスペースが割かれていたのは伊勢商人の歴史。

御朱印の旗は徳川家康から与えられたものを復元

角屋かどや七郎兵衛(1610-1672)はベトナムまで渡っています。鎖国のために帰国できず、現地の女性と結婚し向こうで活躍したそうです。
 

日本最古の帳簿とされる足利帳は、伊勢商人(松坂)が残したモノだそうです。1615年といえば大坂の陣の頃のハナシ!

伊勢商人の持つ資産は莫大で、展示には伊勢亀山藩(5万石)と商人の資産規模を比較した1777年ごろのデータが。
亀山藩の資産14万両に対し津の川喜多家は4.4万両、松坂の長谷川家にいたっては16.8万両! そしてなぜか津藩(32万石)と比較しない不思議。

伊勢松坂の国学者本居宣長もとおり のりなが(1730-1801)は著書玉勝間たまがつまに「あるじは国にのみ居てあそびをり」と記しています。つまり伊勢にいる当主は江戸からの莫大な収益でもって地元で文化活動にいそしんだと。
それが単なるお遊びだけではなく、情報の交換や商人同士の関係強化、一流の芸術家たちとの交流などから、伊勢の文化向上に貢献したと解説されています(なんとも微妙)。
豪商の家訓には倹約の二文字をよく見かけます。お金は貯めるだけでなく、意味のある使いどころも心得ていたのでしょう。


江戸大伝馬町に店を構えた伊勢商人の面々

江戸に店を構えた伊勢商人には、後に三井財閥となる越後屋の三井家(松坂)や、三重県の地方銀行百五銀行の創業家一族川喜多かわきた(津)の名前が見えます。明治以降の当主川喜多半泥子はんでいし政令まさのり:1878-1963)は銀行家、財界人の顔だけでなく「東の魯山人、西の半泥子」と呼ばれるほど陶芸や書画にも通じていた風流人。津市内にある石水博物館では半泥子の作品や家伝来の文書類や美術品を所蔵、展示しています。


そして松阪市にある、あの財閥の原点。

三井家発祥の地(三重県松阪市)

三井家発祥の地は家祖三井高利みつい たかとし(1622-1694)が生まれた場所。霊廟になっているようです。通常非公開。


来遠像

発祥の地のそばには、三越伊勢丹ホールディングスより寄贈された来遠(ライオン)像が。
 

ライオンもいる現代の越後屋 @日本橋

三井高利は伊勢松坂の出身ですが、ご先祖さまは鈴鹿山脈を越えてきた人でした。近江商人も伊勢商人も互いに行き来していましたが、三井家の先祖は近江商人ではありません。キーパーソンは第六天魔王織田信長。


伊勢商人のその後については次の機会に。


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