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日記殴り 2024/3/6~3/12 (12927字)

3/6
書きたい物語がいっぱいあって、色々とアイデアが浮かんでくる。忘れる前に雑に書き留める。書き留める時にそこに意識が集中して、また連鎖的に何か浮かんでくる。暇さえあれば書いている、という生き方が当面の間可能かもしれない。飽きたら蛇口から水が出なくなるようにして終わるだろう。ひとまずは今書いている小説を早く完成させたい。これは自分にとってとても大切なことだという感じがする。自分が書いたものによって、自分が導かれていくような。時間さえあれば何時間も書き続けたい。仕事とか家事をやっていたら時間はすぐになくなる。俺が書きたい物語に比べたら、俺の日常は取るに足らないつまらないものだな、という気がする。そろそろ日記をやめてもいいのかもしれない。でも日記を続けたおかげで自分の文体というか、リズムみたいなものを獲得できたのだし、どんなつまらないことでも書くことには快楽があるから、別にやめなくてもいいのかもしれない。最初に日記を書き始めた時からずっと、飽きたらやめるつもりではいる。
算数が終わったらもうどうしようもないほど疲れきっていた。OMORIのコンサートの動画を目を閉じて聴いていた。OMORIのノベライズ版をいつか絶対に書きたい。
1年前どうしてるかなと思い見てみたら、ちょうど奈緒と別れ話をしていた。命綱を失うと書いてあり、そうだねと思った。命綱を失っても何とかやっているのは、その他にも命綱が複数あるからかもしれない。全部の命綱が切れたら、俺は落ちて死ぬ。その日に別れ話をしようと決めていたわけでもないのに、前日に理由もなく大号泣していたことは不思議だった。こうなることは決まっていたのだろうか。
明日はゆうちゃんとデートだ!

3/7
あのキモすぎる5000字のメールを受け取ってもなお、それまでと変わらず接してくれるということは、ある程度キモくても大丈夫だということが確かめられたので、あのメールを書いた甲斐はあった。ある意味では俺はゆうちゃんを試したのかもしれない。そんなつもりはなくても、知らず知らずのうちに相手を試している、という場面が人間関係にはある。そういったものの総称を縁と呼ぶのかもしれない。
俺は多分これからも寂しいままだろう。奈緒といる間に一生分の愛を貰った。こんなことはもう二度とない。そんな贅沢を望むべきではない。寂しいから人の温もりが分かる。寂しい人しか書けない文章を書くしかない。色々ケリをつけたい。
でも俺は奈緒といる間も寂しかった。生まれてから今日までずっと寂しかった。一体何なんだろう。
石井ゆかりの星読みを毎日見てしまう。どうなってしまうか分からなくて、自分がどうするべきなのか知りたいのだと思う。今日は非・予定調和の日であるという。
牡牛座の俺は「大活躍、一点突破」。
水瓶座のゆうちゃんは「中心。主役。主導権」。
魚座のユリさんは「守り、助け、真の自由」。

ゆうちゃんの身にとても悲しい出来事があり、全然関係ない俺も殴られたようにショックだった。心配になって仕事が全然手につかず困った。拒絶されるかと思ったけどされなかったので会いに行った。毎週毎週バカデカ感情が湧く。どうなっているんだ。怖かった。俺に出来ることは何か、俺に言えることは何か、さっぱり検討もつかず、会えば何か浮かんでくるだろうと思ったが、別に最後まで分からなかった。分からないなりに何か言うしかなかった。とにかく今日ゆうちゃんと会うのは俺なんだから。俺は暗い人間なので暗い話をされても暗い顔をすることしかできず、ただただ暗くなるだけで、何か楽しいことを言って笑わせることとか出来ないのかと思ったが、俺は暗い人間なので仕方がなかった。悲しくて泣くことしか出来なかった。あかりさんに相談したら鳥さんには包み込む暖かい力があると言われたが、今一つ自信が持てず、そんなものあるのかという気がした。でもそれに賭けるしかない。酒は進んだ。酒しかない。全然寝れてないし、全然食べれてないと言っていたが、酒飲むと食べれるなと言っていて、少し安心した。何か言わねばという気持ちのあまり生きるとか死ぬとかについて難しい変なことを言ってしまい、そんなことどうでもいいのに、俺はもう……。そんな難しいことを考えるのはやめて歌でも歌いたかった。犬や猫のようにただ寄り添うことができたら、と思った。難しいだろう。人間には意図があるから。ゆうちゃんは時折発作のように泣き出して、追いかけたいとか会いたいとか言った。とぅらいどぅえ~すと言っていた。今日思い出の河川敷に行ったら、天国そのもので、まさにそこに天国が出現して、目を閉じたら首から下が丸になる感覚があったと言っていた。丸になる感覚とは何なんだろう。魂ってやっぱり丸なのかな、俺たちはみんな丸だったのかなと思った。ゆうちゃんは煙草を吸うようになっていた。キャバ嬢が吸うような細い煙草を吸っていた。30から煙草始める奴っているのかと思ったが、ゆうちゃんと一緒に煙草を吸えることはそこはかとなく嬉しかった。一緒にベランダに出てお茶割りのカンカンに灰を落とした。根本まで吸いきった煙草を先端を見つめて「命の灯火」と言い、火が消えるまでいつまでもいつまでも見ていた。時間の流れに逆らうように、奥の方で弱い光が燻って、でもしばらく経つと消えてしまう。
どうしてなんだろう、色々理由が分からないことが多すぎる、意味が分からないことが多すぎる、どうしようもないだろう、意味が分からないんだから、もしこうだったらとか人生にはない、一個しかない、悔しい、とても悔しいことだ。後悔せずに生きることは無理だ。怖い。恐ろしい。
バカ野郎。ゆうちゃんを寂しい気持ちにさせて……
でも俺に何が分かるっていうんだろう。よく分からなかった。こういう気持ちになることも傲慢かもしれない。実際俺に出来ることなんて何もないのだ。それでも助けになりたいと思うことは迷惑だろうか。いくら俺が自分の存在意義や自己効力感のことばかり気にしてしまう臆病者のチキン野郎でも、ゆうちゃんや、俺の好きな人たちが全員幸せに生きてくれと願ったのは本当。祈ることしか出来ないなんてつらい。生きてても救われない人もいるし、救われてるのに死んじゃう人もいる。
YouTubeでラルクアンシエルが流れて、背中をとんとんしてたらそのまま寝た。寝てる間に勝手に風呂を借りた。何となくのそのそ起き出してまたお喋りが続いた。俺がこの前送ったメールは「巻物」と呼ばれていた。多分ゆうちゃんの友達に面白おかしく話されているだろう。分からないことや納得できないことがどうしても嫌だと言っていて、そういうところが好きだった。クジラやイルカや海の話をした。海が好きだ。夏になったら海辺にレジャーシート敷いて、コーヒーを飲んだり音楽を流したり、なんて話をしていて、いいなあと思った。ゆうちゃんは自分の本名を気に入っていないのに勝手にゆうちゃんと呼んでいるのはどうなのだろうという気がした。ユリさんの話が出て、ゆうちゃんがユリさんと三人で会いたいというので、ユリさんにメッセージを送ろうとしたら、ブロックされていたので送れなかった。あーあ。怖くて見れなかったユリさんの記事を読んでみようと思った。何故かゆうちゃんが先に見た。頑張って読んだ結果、悲しい気持ちになって、普通に死にたくなった……。どうして二人ともこんなに足りないんだろう。俺の友達がスキつけてたので恥ずかしかった。
深夜に煙草を買いに外に出た。下の階の住人は生活音にクレームを入れてきたので中指を立ててバーカ!と言っていた。俺も一緒にバーカ!と言った。コンタクト入れてなくて目が見えないゆうちゃんを、傘をさしてコンビニまで連れて行った。雨がざぶざぶ降っていた。ハイライトを買ってくれた。ローソンの前で煙草を吸っている間に、雨は徐々に雪へと変わった。いつの間にか綿埃のような雪が夜空一面に舞っていて、とても綺麗で、すごい景色だった。シザーハンズという映画を思い出した。街灯のそばに降る雪は橙色で、手前に落ちる雪はローソンの看板に照らされて青白かった。雪の中に出て空を見ながらくるくる回ると、何かしら特別な気分になった。ゆうちゃんは雪女であるらしい。この前の誕生日の日も大雪だった。ゆうちゃんは雪がよく似合う。ローソンの軒下にだらだらとたむろして、携帯からは音楽が流れ、地元のDQNのようだった。チャットモンチーの「世界が終わる夜に」がリピートで流れていた。「わたしが神様だったら こんな世界は作らなかった 愛という名のお守りは 結局からっぽだったんだ」何度も何度も繰り返し流れたので覚えた。マカロニのスープを食べた。温かかった。ゆうちゃんにも食べさせた。全然ライターがつかず、先端でつけるやつをやればよかったのに。気を遣うように何度も「ごめんね、付き合ってもらっちゃって」と言うゆうちゃんに対して「今この時間は俺の人生にとって必要なものだった」と思い、そう言った。3月は悲しい季節だ。みんな3月に去っていくらしい。この3月を乗り切れたら、次の3月まで生きると言っていたので、この3月を生かさなければならない。でもどうやって? 寒いから温かさが分かる。勝手にお腹が減ったりする。何故人はそれで充分じゃないのだろう。日付は3月8日になっていた。一年前のちょうどこの日に奈緒と別れることを決めたのだった。ゆうちゃんは今日彼と会う予定だった。ゆうちゃんは「楽しいね」と言って笑って、俺は勝手に幸せな気持ちになった。雪を見ながらぼーっとした。何本か煙草を吸って帰った。
帰り道ででかい声で「しにてえー!くねえー!」と言っていた。死にてえと死にたくねえは混ざることがある。
ゆうちゃんが風呂に入っている間に散らかったゴミを片づけたりした。洗い物しようと思ったらスポンジがどこにもなくて出来なかった。蟲師を流してまったりした。ドライヤーの音などが聞こえてきて、生活音って良いなあとしみじみ思った。半分寝ていたら風呂上がりのすっぴんのゆうちゃんが現れた。一体どれほど可愛いんだろう。化粧をしていてもしてなくても大して変わりはなく、最初から美しかった。今まで出会った全ての人の中で一番顔が良い。カラコンしてなくて目が黒いのが新鮮だった。動悸がすると言っていて可哀想だった。背中をさすっても良くなるわけじゃないし、どうすることも出来ない。動悸はつらい。収まるのをただ待つしかない。これ以上ゆうちゃんを苦しめるのはやめてくれ~と思った。とっくに朝だった。ニトラゼパムを酒で流し込んでいた。眠剤はすぐに効いて、気分が良くなってきたと言っていたので安心した。寝ると悪夢を見るから寝るのが怖いと言う。悪夢の中まで助けに行きたいと思った。そんなことは出来ない。真っ暗だと怖いので電気はつけたままだった。床に毛布を敷いて丸くなっていたら、長年の相棒であるシャチのマイケルと寝させてくれた。シャチはベロを撫でられると喜ぶのだと言い、マイケルの口に手を突っ込むゆうちゃんの手を見ながら、手を握りたいなあという気がした。ぬいぐるみのようにゆうちゃんを抱っこしたかった。でもそれは意図だ。意図は怖いねえ。「ぎゅっとして寝ると暖かいよ」と言いたかった。「死ぬとき連絡して」と言ったら「うん」と言ってくれた。言質取った。寝る間際までずっと話しかけてきて可愛かった。寝たと思ったら何回も咳をして苦しそうだった。マイケルを抱きしめて寝た。床は冷たくてなかなか寝つけなかった。

3/8
1時間か2時間くらいは寝れただろう。9時のアラームで起きた。ベランダに出ると、雪はまた雨になっていた。大して積もってなかったが、建物の屋根などが薄っすらと白かった。人々が駅に向かって寒そうに歩いていくのを見ながら、煙草を吸った。ゆうちゃんを一人残して行くことに不安を感じたが、金を稼がなければならなかった。今日の夜には職場の人たちが来てくれるらしい。「また来るね」と言ったら寝ぼけた声で「うん」と言った。よく眠ってほしい。寝てないとおかしくなるから。俺も寒そうにしながら駅まで歩いた。フジファブリック聴きながら帰った。

俺は愛される値打ちのない人間です。そういう風に思っていた方が落ち着く。恋をするにはあまりにも自信が足りない。それはそれとして、ゆうちゃんを家族のように気にかける気持ちがある。自分の中にこのような感情が湧くということが嬉しかった。恋愛感情か家族愛、どちらを膨らませるか選べるのなら、俺は後者を取りたい。ゆうちゃんを一人にするのは心配だった。一人になるとどうなっちゃうかわからなくて怖いと言っていた。死ぬのが怖いという感覚がなくなったとも言っていた。心細いのは嫌だろう。でも俺は本当の家族ではない。悔しい。恋愛も家族愛も他者を求める気持ちの在り方が変化したものに過ぎない。別に区別はどうでもいい。俺は普通にゆうちゃんが好き。死なれたら困る。でも俺にはどうすることも出来ない。人は皆勝手に生まれて勝手に死んでいくのだから。またゆうちゃんに会いたい。
先週ゆうちゃんちに行った時と同じように、嬉しくも悲しくもないニュートラルな気持ちになっていて、落ち着いていた。ゴミのように疲れ果てていたが、謎の活力が湧いて、淡々と仕事を片づけた。コーヒーを4杯飲んだ。よく眠れたかLINEで訊いたが既読がつかない。夕方頃にはゲロゴミクソだった。電池切れ。週末を終わらせ家に帰って黄色くなった枝豆ご飯を食べて風呂入って髪乾かして寝た。

3/9
いっぱい寝てげんきげんきー♩だった。今日俺はどうするべきだろうかと考えた。追撃のLINEをゆうちゃんに送ったが、返事はなかった。今この瞬間にも死んでいるかもしれないと思うと不安で、無駄足に終わったとしても、おせっかいでも、やはり家まで様子を見に行くべきだろうかと思った。
ゆこちゃんとちーこっこのグループラインで3人で話したいと突然ちーこっこから電話が来て、通話が始まった。ゆこちゃんは来なかったが、どうせまた飲みすぎて寝ているだろうと思った(事実その通りだった)。「最近あった一番やばい話をしてください」と言われゆうちゃんのことを話した。どこまで踏み込むべきか躊躇っている、と言うと、どこまでも踏み込んで行くべき、死ぬかもしれない人を放っておくべきではない、と強く言われて、そうだよなと思い勇気が出た。それから今書いている小説の話をしたら、強引に締め切りを設定され、3月末までに見せることになった。「私も何か書いて見せる」と言われ、お互いの作品を見せ合う約束が交わされた。なんかこの人はすごい人だなーと思った。俺たちはただ全力なだけだ。エネルギーを貰った。
とにかく神のようなタイミングだった。天啓めいたものを感じてしまう。
心を落ち着かせるということが大切だった。ゆっくり掃除をして、歌の練習をした。寝てるかもしれないから夜くらいに行けばいいかと思い、それまで友人2名を誘ったが、いずれも振られたので、もう行くことにした。レノンとボロとしげも連れていくことにした。久しぶりの外出にうきうきしている様子だった。
雲一つない抜けるような青空だ。空気はひんやりと冷たい。日差しを浴びることが嬉しかった。じいちゃんの葬式の時と似ていた。てくてくと池袋まで歩いた。長い長いエスカレーターに乗って、ロフトで綺麗な色の灰皿を買った。それから電車に乗って出かけた。
どうなるかわからないが行くしかない。自分には何も出来ないと言うのをやめよう、やりたいようにやるんだ、と思った。3月の間は粘着しようと決めた。拒絶されたら帰ればいい。電車に乗りながら傾聴について調べた。俺には今自分のやるべきことがはっきりと分かっているからとても頭の中がクリアだと思った。それはゆうちゃんを死なせないということだ。もし他にその役目を負った人がいるのならそれに越したことはない。でも誰もいないなら俺がやるし、みんなでちょっとずつしか出来ないのなら、その中の小さな一つになる。エゴだろうと何だろうと、こっちも必死だった。俺は今やることが分かっているけど、ゆうちゃんはどうすればいいか分からないだろうから、苦しいだろうと思った。今とは違う気持ちで彼を思い出すことが出来る場所まで連れていく。死んじゃったら思い出すことすら出来ないかもしれない。そんなのは寂しい。
夕方頃着いて、夕陽は優しかった。一応事前に連絡はしておいたが返信はなかった。インターホンを押しても返事がなければ、2時間くらい時間を潰して、もう一度インターホンを押して、それでもダメなら帰ろうというプランを立てた。インターホンを押して出てきた時のプランはなかった。以前毎日狂ったように食べていると言っていたブリトーをコンビニで買っていった。ボタンを押すのは怖かったが押した。出てきてくれた。やつれて憔悴しきった様子だったが、生きて存在しているということに深い安堵感を覚えた。家に入るなり「もてなそうとか思わなくていいから、いないものとして扱っていいから」と宣言した。眠剤で悪夢を見たらしい。悪夢の説明を聞きながら、怖かったねえと言った。せめて夢の中くらいは楽しい思いをしてほしいけど、なかなかそうもいかない。
ゆうちゃんが寝たので、macを取り出して暗い部屋でやり残した仕事をした。二時間ほどやって終わったタイミングでゆうちゃんが起きた。「鍋でもする?」と聞くと「やってー」と言うので食材を買いに行った。小型の鍋にギリギリまで詰め込んだ。じゃがいもや卵を入れて、おでんのようだった。「鍋なんていつぶりだろう」と言っていた。なかなか一人じゃやらないもんね。北野武のソナチネを観ようと言われて、観ながら食べた。美しくて寂しい映画だった。一人でフリスビーをするシーンが観ていて辛くて、これはゆうちゃんは辛いだろうなと思った。少し変性意識のようになった。沖縄に行きたい。素晴らしい映画を見た。鍋を結構食べてくれたのでよかった。「温かいものはいいね」と言っていて、完全に同意した。「帰らなくていいの?」と言われて「帰れと言われたら帰るつもりではいる」と答えたが、帰れとは言われなかったのでそのままいた。
ベランダで煙草を吸った。ゆうちゃんは酒を飲んで、何本も何本も煙草を吸った。遠くの空に弱い星の光が瞬いていた。宵の口に見えていたオリオン座は、どこかに移動していた。綺麗な色の灰皿は気に入ってもらえた。並んで一緒に煙草が吸えるなんて、こんな日が来るとは思わなかった。こういうことを一番やりたかった。それが深い悲しみによってもたらされたものだとしても、今こうしていることはかけがえがなかった。夜はちょっと元気になると言って、昼間より健康そうな顔で笑っていたので安心した。「夜の女王だね」と言った。何回か悲しみの発作がきて、泣き崩れた。それからぽつりぽつりと、思い出話や抱えている感情について話してくれた。否定しない、誘導しない、アドバイスしない、ただ声に耳を傾ける、君のそのままを知ろうとする。上手く出来ただろうか。「優しい人から死んでしまう」と言って泣くゆうちゃんは誰よりも優しかった。ゆうちゃんの言うことはことごとく全てよく分かった。謝りたいと思っていたことを謝れたのでよかった。「ここにいたい」と言うので、震えながら何十分もベランダにいた。「寒いでしょ」と言われたが、心が寒くないので別にどうってことなかった。冬は空がよく澄んで星が綺麗に見えるから好きと言う。結構酔っ払ったと言って何も喋らなくなり、俺は小声で鼻歌を歌った。トイレに行くと言って部屋に入る時に何故か鍵を閉められてしまい、このまま戻ってこなかったらどうしようかとゾッとしたが、戻ってきた。でも寒いので部屋に戻ろうとなった。そのままベッドに倒れ込んで眠ってしまった。
俺は家族を気遣う弟のようで在れただろうか。そうであればいい。色々と辛いことが多すぎた、生まれた時から。俺がいたところで一緒に暗い感じになることしかできないが、別に暗くてもいい。ゆうちゃんに少しでもほっとした気持ちになってほしい、過去も未来も関係ない。
俺は今日ずっと寂しくなかったから、その分は役に立ちたい。
小さい音で青葉市子を流してまったりした。身体が冷えきってしまい、給湯器の温度を上げて風呂に入った。早く暖かくならないかなと思った。お泊まりセットを持ってきていた。歯を磨いて髪を乾かした。床でマイケルを抱きしめて寝た。

3/10
9時に起きた。カーテンを開けると天国のような空の色で、海にでも行きたいような天気だった。おはようと言った。オレンジジュースが飲みたいと言うので、買ってきてあげよっかと申し出たら、外に出なきゃと言うので、一緒に買いにいくことになった。ゴミをまとめて持っていった。ゴミの分別がなされていて、ペットボトルのラベルもちゃんと剥がしていて偉かった。ちゃんと分別していて偉いねと言って褒めた。てくてく歩いてセブンイレブンへ。「いつ外に出れるか分からないから」と言って色々大量に買い込んでいた。ガリガリ君を買ってイートインの椅子に座って食べていた。冬にアイスを食べる人はたまにいるけど、ガリガリ君を選ぶ奴は滅多にいないよな、と思って珍しかった。色々入ったでかい袋を持ってまた部屋に戻った。同棲みたいで楽しい。
「そろそろ帰れよって思う?」と聞いたら「別に」みたいな感じだったので、じゃあいいかと思ってそのままいた。ゆうちゃんは洗濯物干したら寝た。日記を書いて小説を書いた。前日の日記を書き終えて、小説はちょっと進んだ。穏やかな昼下がり。
14時くらいに起きてきた。最高に完璧な目玉焼きを作ってもらった。黄身の固さが完璧に計算されていて、研究の賜物だった。美味すぎる~。ゆうちゃんは料理が上手い。冷蔵庫の中に2ヶ月前の卵とかが平気である。朝捨てるべきだった。次のゴミ捨てチャンスの時は絶対に冷蔵庫の中を整理しようと思った。マヒトゥ・ザ・ピーポーのi aiの予告編を見せたら興味を示したので、観に行こうと思ったがチケットが完売していたので来週見にいく約束をした。
ベランダには洗濯物があるので、煙草を吸いに外に出た。駐車場で日に当たりながら溶けそうになり、生きているような、死んでいるような、不思議な気持ちだった。このまま消えたい、眠るように死にたいと言っていて、ゆうちゃんに消えてほしくないけど、同じ気持ちであることは否定出来なかった。このまま画面に「終」みたいなのが出てエンドロールが流れてほしい。コンビニに煙草買いに行って戻ったら、三角座りでまだそこにいた。暖かくて動けないと言った。猫みたいだ。
部屋に戻ってまた寝た。俺もマイケルを抱きしめて少し昼寝をした。安心感に包まれていた。眠りが覚めてもこのままいたいと思って、そのまま目を閉じていた。丸になれる感覚を俺も味わえるだろうかと思って、瞑想をしてみた。呼吸に意識を向けて、瞑想状態に入っていくと、だんだんバカデカ情緒が湧いてきた。こんな感情になるとは思ってもみず戸惑った。
ゆうちゃんが寝返りを打ったり、何か物音を立てるたびに、喜びが溢れて止まらなかった。春の木漏れ日に吹く優しい風のようだった。でも同時にそれは深い悲しみだった。今この瞬間にしか存在しない、1秒後にはもう消えてしまう、そういう悲しみだった。心がとても痛くて、でもそれは何故か心地がよかった。ずっとこうして感じていたいと思った。何度か涙が込み上げてきた。いてくれてありがとう、存在してくれてありがとうという感謝がこみ上げた。でも感情をそのまま感じ続けることは難しい。感情に意識を集中して、それが更に増幅すると、身体と意識はそれに反応し始める。身体にはいつの間にかぐっと力が入り、たとえばこの感情をゆうちゃんにどうやって伝えるか、ということを考えている。そうすると次第に感情は遠ざかった。違う、この感情をどうするかではなく、今はただ感じていたいのだと思い、また頭の力を抜いていく。身体は冷えていたが、頭の奥がじんわりと温かく、温泉が湧いているようだった。心臓がドキドキと鳴った。
いつまでもこの感情の波に溺れていたい、感情に引き裂かれてぐちゃぐちゃになりたいという気がしたが、トイレに行きたいと思ってトイレに行った。そうするとゆうちゃんが起きた。ゆうちゃんが洗濯物取り込んだりしている間に嗚咽しながら泣いた。ゆうちゃんが生きて動いているということがすごすぎる。夢かなと思った。夢なんだろう。
歌いに行こうよと誘った。3日風呂入ってないけどいいかなと言われていいよと言った。前髪だけ整えてスウェットで出かけた。電車で二駅先の街へ。買うものがあるというので百均を回遊魚のようにぐるぐる回った。手にしたのは黄色いフリスビーだった。だめだ、それを持って帰っちゃ、と思ったが見つけてしまったものは仕方がなかった。玩具の棚にはなく、全然関係ない棚に忘れられたようにそれはあった。でも見つけてしまった。それは死に近い。でも止めることなんて出来るわけない。二度と既読のつかないLINEにメッセージを送り続ける行為も、止めることなんて出来るわけがなかった。お風呂のお魚セットを買ってあげた。お湯溜めてねと言った。
マクドナルドでナゲットとかポテトを買って、コンビニで酒買って、カラオケイン。ゆうちゃんは最初から全力で声に魂が乗っていて感情を揺さぶられた。奈緒の歌い方に似ているという気がした。一生懸命なんだ。俺も頑張って歌った。悲しい曲を何曲も歌った。チャットモンチーの「世界が終わる夜に」は完全にあの雪の景色で記憶が固定されていた。あっという間に2時間経ってぴえんと言っていたので延長して更に1時間歌った。ゆうちゃんは泣きながら歌っていて大好きだった。ゆうちゃんは全力で生きている。歌はいいな。魂が抜けたように疲れ果てた。カラオケの喫煙所はうらぶれた感じがして好きだ。床にあぐらをかいて一緒に煙草を吸った。
日高屋で飲もうよと言って日高屋で飲むことになった。日高屋飲みとサイゼ飲みが大好きと言っていてこの女最高〜と思った。カラオケを出るとゆうちゃんは日高屋までいきなり全力で走った。俺も走って追いかけた。冬って感じだった。愛おしさでいっぱいになる。奈緒もよくこうやって突然走り出す時があって、いつも走って追いかけていた。そんな日々もあった。言葉にできないことが色々ある。レモンサワーで早々に酔っ払った。傾聴のことなんか忘れて二人とも思い思いのことをペラペラと喋りまくった。酒っていいなという気がした。金曜日まで生きれそうか聞いたら生きれそうと言ってくれて良かった、本当に良かった。気分の変動というのは予測がつかないので、真に受けるわけにはいかない。でも少なくとも今は息がしやすそうで、そんなゆうちゃんを見ると俺もほっとした。人生って一瞬楽しければそれで良くないっすか? と思いそう言った。ギター教えてと言われてギター教えることになった。ギターが弾ける俺で良かった。ありがとうと何度も言われてありがとうお姉さんじゃんと言った。こちらこそありがとうと思った。俺はゆうちゃんがいることで勝手に良い気分になって、勝手に優しくしたいと思った。自由気ままだ。それは優しさとして受け取ってもらえない限り、優しさにはなれない。この街の日高屋が思い出になった。
終電間際にコンビニ前でたむろした。今後またどんなに苦しい目に遭うとしても、この時間だけは永遠だと言っていきたい。終電逃したらまた泊まるだけだしむしろ終電逃したいなという気がしたが終電で帰った。ホームでハグしてナイスワンと言って別れた。別れたそばからもう寂しかった。
何かしらが正しい形で伝わったという感触があった。勝手な充足感だった。ドクターペッパーを買って公園で煙草を吸った。煙草は誰かと吸った方が美味しい。俺は生きなければと強く思った。そう思うことは怖かった。恐ろしくて仕方がない。今までずっと、何かあれば死ねばいいやと思って、それをお守りのようにして生きてきたのだから。
死ぬほど疲れて寝た。

3/11
日記を読み返したら調子に乗っててこんなのダメだろと思った。別にダメじゃない。恥ずかしくて消えたいという気がした。誰に対して何が恥ずかしいというのだろう。
あるいは俺は人の弱みにつけこむ詐欺師のようなものなのかもしれない。それについて心の片隅にずっと引っかかっていて、考えると怖い。でもゆうちゃんは詐欺師に騙されるほど馬鹿じゃない。見くびってもらっては困る。それにゆうちゃんは俺が考えているよりもずっと強い人間だった。この2日間でそのことがよく分かった。
自己との対話には終わりがない。ずっと言い訳をし続けなければならない。もう飽きた。
ゆうちゃんは素晴らしい人間なのだということを世界中の人に伝えたい。
寂しさについて考えていた。それはつまり、誰かが自分のことを待っていてくれたり、同じ部屋にいながらそれぞれが違うことをしていたり、おはようと言ったりおやすみと言ったりする、ということで、そうした欲求の度合いが強すぎると寂しさとなって心を苛むが、それは誰の心の中にもある普遍的なものだ。全てのJ-POPの歌詞にそれは書いてある。人が一人では生きられないということは、火を見るよりも明らかだった。寂しさがあるというのは当たり前の現象だった。
僥倖を待ち望んでも、待ち望んでいなくても、そんなことは一切関係なく、何らかの喜びと悲しみが無差別に与えられる。俺はもう寂しいからと言って簡単に人を好きになるのはやめようと思った。寂しいからと言って寂しそうな素振りを見せるのはやめようと思った。時間の無駄だから。物欲しそうな顔をしてキョロキョロ歩くのではなく、地面だけを見て歩こうと思った。
マイケルを抱きしめて寝るのは、ゆうちゃんを抱きしめて寝るのとほとんど同じ効果があった。
会いたい人には会えないことの方が多い。

3/12
雨がじゃぶじゃぶと降っていた。疲弊していた。死にたいというのは至極当たり前のことだ。その感覚を疑ったことはない。明日は今日よりは良い日になるだろう。でもそれが終わったらまた今のような苦しみが訪れる。それらは代わる代わる律儀にやってくる。死にたいと願っても死ぬ機会はこれまで与えられなかった。彼には与えられた。たったそれだけのことだ。救われてても救われなくても、何も関係ない。自分より先に誰も死んでほしくないので、出来るだけ身の回りの人を死の機会から遠ざけたい。でもそんなのは関係ないのかもしれない。世界が生きろと言えば生き、死ねと言えば死ぬ。生きろ、感情を感じろ、感じろと、何故か分からないが様々な出来事が降りかかる。喜び、悲しみ、恐怖、黙っていても何かがある。最後の時まで頑張るしかない。それは60年後かもしれないし、明日かもしれない。こんなクソみたいな人生は早く終わってほしいという気もするが、別にもうどうでもいいのかもしれない。苦しみに耐えられなくなったら眠剤を飲んで昏々と眠ればいい。腹が減ったら起きて飯を食えばいい。簡単なことだ。何かやりたくなったらやればいいし、やった結果上手くいかないというのは、当たり前のことだ。もう一生分の感情を感じ終わったという気分になるが、忘れることが出来るので、いつまでも何度でも新しい経験が出来る。昨日の自分は今日の自分ではない。昨日の自分はもう死んでいる。未来は存在しない。そうして繰り返し死んでいき、そのうち耐用年数が終わったら心臓や脳が破裂して動かなくなるだろう。死ぬなんてのは何も特別なことじゃない。ただ今までできたことができなくなって寂しいというだけだ。それだけのことがこんなに苦しい。

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