日記殴り 2024/3/27~4/2 (8863字)

3/27
昼ずっと石崎ひゅーいを聴いていたから頭がおかしくなった。
あんなに優しい奈緒を俺は死ぬほど傷つけてしまった。
奈緒の良かった部分と俺の悪かった部分ばかり思い出して心が壊れそうになる。奈緒ほど真っ直ぐ俺を愛してくれる人は、もう二度と現れないだろう。生まれてから一度も真っ直ぐ愛されたことがなかったので、真っ直ぐ愛されるというのがどういうことか知らず、失ってからしか分からなかった。大切にされても、大切にされていることが分からなければしょうがない。
何故俺は奈緒の真っ直ぐさに応えられなかったのか。今だったら絶対にあんな態度は取らない、ということが山ほどある。やり直したいことが山ほどある。不甲斐ない記憶ばかりがぐるぐる回る。
自分から振ったくせにどうせいなくなるんじゃんかと勝手なことを思っている。
奈緒が結婚して良かった。もう絶対に戻れなくなって良かった。大切にされていたことが分かったから。あの日々に戻れるなら、また俺は甘えてしまうだろう。一緒にいて大切な人の価値が分からなくなるより、離ればなれになってちゃんと分かる方がいい。もう二度と明るい気分になって調子に乗りたくない。これからは思い出を抱き締めて後ろ向きに生きていきたい。
これすらりゅうの奈緒が恋しいという感情を黒猫が利用しているだけなんだとしたら、一体何なんだ。俺に正常に人を愛する能力が欠如していることは俺の日記を読めば簡単に分かるだろう。もう全部バレているんだ。俺ってクソ勘違い野郎だ。早く死なないかなー!

3/28
奈緒に初めて貰った手紙が、かつてないほど胸に響く。今更遅すぎるだろうという気がするが、同時に何だか感動する。真心を込めて放った言葉が、数年の時を経て人の心を震わすということが、あるのだ。
つくづく思う。恋愛はクソだ。あんなのは脳が一時的にどうにかなっているだけで、病気みたいなものだ。そして、家族のような愛情が欲しいと切実に願う時、この恋愛感情が否応なく混ざっていく。そういうところもクソだ。ただ、大切にして大切にされたい、それだけを願っていたはずなのに、いつの間にかエゴの塊のような醜い感情にまみれている。やめてくれ。
大切にして大切にされるのは難しいから、奈緒に貰った愛情は、身の回りの人たちに小出しにしながらちょっとずつ返していく。
吉祥寺でライブだった。夕方から雨が降り出した。一日中酷い気分で、ステージに立ったら何か変わるだろうかと思ったが、ステージに立っても何も変わらず、でも不思議と緊張はしなかった。過去という迷宮に囚われて、現在を諦めているのかもしれなかった。人前で歌を歌う時に、何か大きなエネルギーが自分の中から出ていく。それは本当に気をつけて制御しないと、すぐに飛躍して逸脱していってしまうので、精神を一ヶ所に集中させる必要があるが、気力がなかった。つまらないミスを連発しながら、そのことに焦りもしない自分を、不甲斐なく思った。気圧のせいかもしれないし、平日の仕事終わりのせいかもしれない。あるいは黒猫である俺にりゅうの代わりは務まらないということかもしれない。曲と曲の合間に寒いお喋りがペラペラペラペラ無限に湧き出て、確実に滑っていたので、何も喋らない方がマシだった。それでも歌そのものが持つ意味を蔑ろにはせぬよう、真剣に、心を込めて、前を見て歌った。でもそれは真剣である振りをしていただけかもしれない。
俺以外の人はみんな一生懸命やってるのに、お金払って見に来てくれてるのにと思うと、本当に恥ずかしくて消えたくなったが、恥ずかしくて消えたいという感情を俺は今まで死ぬほど味わって来ているので、もういいよという気がした。なすもともちゃんも良かったよ、と言ってくれた。思わず嘘でしょ? と言ってしまった。佳納子さんも最高でしたと言ってくれた。良かったんですか? 俺はいてもいいんですか? この人たちはお世辞を言うような人だろうか。じゃあ、まあ部分的には良かったのかもしれない。ステージでの記憶があまりない。俺が知らないだけで、歌を歌っている途中で、りゅうは戻ってきていたのかもしれない。認知が歪んでいるから何も分からない。演奏が良いとか悪いとかもはやどうでもいい。俺はプロのミュージシャンじゃない。もっとのびのびと歌いたかった。歌を歌うことで元気になりたかったけど、音楽は俺に対して厳しかった。いつもそうだ。音楽は、俺にとって厳しい先生のようだ。怒られてばかりいる。俺は俺が作った歌を本当に愛していて、本当に愛している俺の歌をやり切るための覚悟が足りなかったので、やっぱり今日はダメだった。
佳納子さんの歌は、真っ直ぐで、稲妻のように真っ直ぐで、光を帯びてキラキラと輝いているようで、何か悲しい感じがした。懸命に生きている。目に涙が滲んだ。
酒を二杯飲んで、フライドマッシュルームというものを食べた。黙々と食べた。食感がプリプリしていて美味しいという気がしたが、味がしないという気もした。なすにもっとライブしなよと言われた。佳納子さんにまた出演のお誘いをいただいた。二つ返事で出ますと言った。佳納子さんにはもう一件誘われているイベントがあるし、なすと出るライブも二件決まっていて、もう最近は全然ライブとかしなくなってるのに、今、謎にライブの予定が四つもある。どうなっているんだろう。何故全ての誘いを言われるがままに受けているのか、自分でも分からないが、それ以外の選択肢はなく、全て二つ返事だった。誘われるのは嬉しい。普通に寂しいのかもしれない。何だかんだ言って歌ってる自分が好きなのかもしれないし、まだ何か諦めきれない夢を見ているのかもしれない。逃げるなと言われているのかもしれない。人との関わりを諦めるなという呪縛かもしれない。
終演後外に出るとユリさんが待っていた。決着をつけなければならないのだ。酷い気分であることを告白して、ユリさんのせいじゃないよと俺は言ったが、やっぱり部分的には確かに、客席にいたユリさんに引きずられていたのだと思う。ユリさんを真っ直ぐ見れないのと同じように、俺は音楽を真っ直ぐ見れなかった。そぼふる雨の中を、壊れた傘を差して、井の頭公園まで歩いた。売店の軒下で雨を避けながら、少し話した。一生懸命書いたであろう文章を見せられたが、あまりピンと来なかった。一生懸命書いてくれたのだということは分かった。ユリさんは頭を垂れながら、敬語でボソボソ喋っていて、何を言ってるのかよく分からなかった。ひたすら申し訳なさそうにしていて、自分が何か悪いことをしている気分になった。随分遠いところにいる感じがした。しょんぼりしていたので励ました。励ましながら、なんで俺はこの人を励ましてるんだろうとちょっと思った。最後なんだし、なるべく良い俺でいたいと思った。でも俺は良い人の振りをしているだけかもしれない。「胸を張って生きて」と言った。つまり、あなたに好意を持っている人の好意を、蔑ろにしないで、と言いたかった。ユリさんは俺が何を言っても俯いて首を振るだけで、そうだろう、俺が言うことなんてどうせ何一つ響かないだろう。お説教じみたことも言った。お前にだけは言われたくないと思われたかもしれない。煙草吸ってハグした。
俺の好意は最初から最後まで無視され続けた。無視されるのは寂しいことだ。俺はユリさんとのことを反省こそすれ後悔なんて全然してないけど、ユリさんは後悔しかしてないから、ちょっと自分のことが可哀想になった。でも自分の意思で今日来てくれたことは嬉しかった。きっとすごく頑張ったんだろう。
「未練が……」とか言われたけど、俺はユリさんに対して面白いくらい全く何の未練もなく、自分の変わり身の早さにただただ驚くばかりだ。数ヵ月前の日記を一生読み返したくない。恥ずかしいから。ユリさんは俺を真っ直ぐ見てくれないので好きじゃない。ユリさんが見ている俺は、本来の俺の姿とかなり乖離があるように思う。だから無視されているような感じがする。でも本来の俺って何だろう。ただ俺がユリさんに対してそういう俺でしかいれなかったというだけじゃないのか。申し訳なさそうなユリさんの姿を見て、子供の頃、母は俺に対してずっと申し訳なさそうにしてたんだな、ということに気づいた。
駅前で別れた。最後の言葉は「幸せになれよ~」だった。天一でラーメンを食べた。天一大好きなのに、味がしないという気がした。お腹が苦しくなった。電車に乗って帰った。傘がぶっ壊れて濡れながら家まで歩いた。あああ、って感じだった。ユリさんに伝えた言葉が全てブーメランのように自分に突き刺さってくる。後悔なんかしてる暇があったら今目の前にいる人を大事にしろ。しっかりしろよ。馬鹿が。そんなんじゃ全部失うぞ。目を閉じたら寝た。

3/29
実際、奈緒と同じ水準を求めてしまうと難しいだろう。稀有な人だった。逸材だった。赤ちゃんから育て直してもらうように、惜しみない愛情を注いでくれた。贅沢な体験をさせてもらった。
とにかく自分の気持ちに素直な、真っ直ぐな人だった。色々と世の中に対して拗れてるとこはあったけど、少なくとも俺に対してだけは、ずっと素直でい続けてくれた。どうやったら奈緒みたいに真っ直ぐに人を愛することが出来るんだろう。奈緒になりたい。

3/30
特に何をするつもりもなかった。小説のことをしようと思っていた。急にともちゃんからピクニックを開催すると連絡があったので、電車に乗って向かった。家を出た瞬間に暖かくて、こんな日に外に出ないなんて、と少しうきうきした気分になった。春がきた。駅を行き交う人々はもれなく軽い服装で、半袖の人もいた。駅までひろみくんが迎えに来てくれた。奥ゆかしいピンクの可愛い自転車だった。河川敷にテントとレジャーシートが広げてあり、ともちゃんの友人が数人いた。陽が当たるとかなり暑かった。お菓子を食べたりした。酒は飲まなかった。全員文化的な感じで、毎朝行きつけの喫茶店で食べるトーストの話や、スニーカーの話などをしていて、俺はここにいていいのかという感じがちょっとしたが、そういう風に思うということは俺はあまり元気ではなかった。疎外感を楽しもうとしてしまうのは良くないことだ。奈緒やユリさんやゆうちゃんの話をして恥ずかしくなった。人に自分の恋愛話をするのはやめたいと思った。ピクニックと言えばギターだろうと思いギターを持ってきていたが、ギターを持ってきたことにより自分の持ち曲を披露することになってしまい、注目を浴びて恥ずかしかった。恥ずかしがりすぎ。自信を持って堂々と歌えば恥ずかしくはないだろう。でも自信という感情がどのようなものか思い出せず、声がヒョロヒョロだった。そういえばともちゃんがこの前のライブ良かったと言ってくれた。やっぱり良かったらしい。友達補正がかかっているとしても、少なくとも形にはなっていたということだ。俺は認知が歪んでいる。適当にギターを弾いていたら曲のようなものができた。会話に関しては上手くいかなかったが(上手くいかなかったと思い込んでいたが)、春の陽気はぽかぽかとして、家族が草の上でキャッチボールをしていたり、犬が吠えたり、豆から挽いたコーヒーを淹れてくれたり、みんながお菓子をつまみながらだらだら話している感じは、天国のようで、なんか良い感じだった。夕方頃には風が涼しくて、さらに良かった。俺は元気じゃなかったけど、まあ元気じゃなくてもいいか、という感じで、ふんわり受け入れられてるような、無視されているような距離感がちょうどよかった。自分の話をし過ぎて後悔してしまったので、もう少し聞き役に徹すればよかった。かけっこで誰が一番足が速いか決めよう、と誘って、みんなで原っぱを全力疾走したのは楽しかった。ひろみくんは足が長いので有利だ。でも僅差で勝った。足の速さというより、トイレの壁に激突するかどうかのチキンレースで、俺は後先を考えずに激突するタイプだったので勝てた。
夕方頃に解散になって、もの寂しさを感じた。電車に乗って十分くらいするとともちゃんから連絡があり、何となく家に帰りたくないのでサイゼに行く、とのことでまた舞い戻った。俺は承認欲求が壊れているので、自分が求められているとなればすぐさま行く。フッ軽ということにしたい。駅で待っていたともちゃんとひろみくんに「久しぶり!元気だった?」とギャグを言った。サイゼでドリアとカタツムリとパスタを食べた。そして白ワイン。ともちゃんとひろみくんは今日の反省会のような感じで「自分の悪かったところ」を発表しており、俺の脳内でいつも半ば自動的に開かれる反省会を、この人たちの脳もまた開催しているのだ、ということで共感できた。自殺未遂の話とか、暗い話が多くて、暗い話しかする話がなかった。でも別にそれでいいじゃん。別にそれでいいよね? 間違い探しは白熱した。ほろ酔いでちょうど良かった。二人の家にお邪魔した。綺麗に片付いた部屋には、空色のソファーがあって、ヨギボーがあって、天井からドライフラワーが吊るされて、本棚はサブカルだった。何だか愛しくてちょっと泣いちゃいそうだった。「記憶の中にしかない東京」みたいだ。つまり一言で言うと愛だった。みんなでベランダで煙草を吸った。居心地が良すぎて眠くなった。イエティの動画と蟲師を見た。ひろみくんが蟲師ガチ勢と聞いてもっと好きになった。ともちゃんとひろみくんは良い人なので駅まで送ってくれた。自販機でドクターペッパーを買って東京の香りを嗅いだ。十年前家出して東京に出てきたばかりの頃、しょっちゅうドクターペッパーを買っては中央線沿いを散歩していたので、ドクターペッパーから東京の香りがする。やっぱり東京は好きだ。ゆうちゃんの話をし過ぎて恥ずかしくなった。恋愛話は日記に書くくらいに留めておきたい。好きな人と暮らすというのは、とても良いことだ。また来たい。ずっと仲良しでいてね。

3/31
短編小説を新潮新人賞に投稿した。生まれて初めて書いた小説だ。分量は一万六千字ほどになった。推敲すればするほどとっ散らかっていき、擦りすぎて自分でもわけがわからなくなった。全然納得のいく出来にはならなかったが、締め切りは今日なので仕方がなかった。小説を書くのは難しいということが分かった。思いのこもった熱い文章だという気もするし、ただの妄想キモキモ夢小説だという気もする。何回も読み返しすぎて、もはや何が書いてあるのか分からない。とにかく終わって良かった。投稿し終えた後は謎に「まあ俺って天才だし……」という気分になった。
推敲は地獄だったが、書いていて心地の良い小説だった。何というか、自分の中の穏やかな部分が活性化する感じで、メンタルに良かった。休むというのは大切なことです、という気持ちを込めて書いた。発表したらダメらしいのでnoteには載せれないけど、読みたい人いたら連絡ください。あらすじ→冬の間熊のように冬眠し続ける「君」と、君を灯台守のように見守る「僕」の、特に何も起こらない日々。
暖かいを通り越して暑い。あまりの寒暖差に冗談かと思った、と書いている人がいたが、全く冗談のような気候だ。窓を開けていた。匂いは春だった。毎年春一番の匂いを嗅ぐと、何とも言えない死にたいような死んでるような変な気分になるが、それだった。檜山沙耶のラスト出演を切り抜きで見て泣いた。これで終わりなんて、本当に夢みたいなことだ。人生でやることが一つ終わった。終わっていく。リアルタイムで見られなかったことは悔しい。おさやのいないウェザーニュースなんて……と思った。俺はおさやを推していたので、おさやが出演の日はいつも奈緒がテレビでウェザーニュースをつけてくれていた。よく晩ごはんを食べながら一緒に見ていた。その奈緒ももういない。春は出会いと別れの季節とか言うけど、人は毎秒死に続けている。そのことは小説にも書いた。でも、コロナで在宅だった頃は毎日おさやを見ながら仕事していたし、38chの切り抜きも全部チェックしていた、それは人生の中ではほんの短い些細なことかもしれないけれど、ちゃんと歴史だし、歴史は消えないだろう。アカシックレコードに記録されているだろう。ぶっ飛びお姉さんの異名を持つおさやは、いつも突拍子もないことを言っては、俺を笑わせてくれた。おさやの前途に希望があるように、光があるように、祈っている。おさやの退職について奈緒と話せないことは悔しい。奈緒、どこにいるの。夕方、洗濯物を取り込んでから、気力を振り絞ってコーヒー豆を買いに行った。家に帰って風呂に湯を溜めた。風呂から出て、全裸で炒飯を作って、全裸で食べた。
夜中に日記を書いていたらゆうちゃんから電話がかかってきた。寂しくなったら電話してとか調子に乗って言ってたけど、本当にかかってくるとは思ってなかったので、少々取り乱してしまった。ゆうちゃんはベランダで酒を飲みながら煙草を吸っていた。辛そうだった。もうベランダの季節だ。またゆうちゃんちのベランダに行きたいと思った。チェアを買うと言っていてナイスアイデアだった。手首にタトゥー入れた話が最高だった。昨日ともちゃんが言っていた「自分から目を合わせにいくのではなく、目が合うまで待つ」という話を思い出した。目が合った気がしたので書いた小説を送ってみた。どうにもならないことを、どうにもならないねと言うことしか出来ない。でも別にそれでいいよな。死の話を多めにした。1時間くらい喋っていた。つまり、俺は深夜に電話をかけたい相手のうちの一人としてカウントされているわけだ。俺なんかに心配されてもウザいかなと思っていたけど、遠慮せずにどんどん家に行ったりするべきかもしれない。ゆうちゃんの苦痛を軽減できるなら何でもしたい。

4/1
相手のためだけを思って行動する、というのは原理的に可能だろうか。多分考え過ぎていたら無理だ。相手を思いやることによって自分が受け入れられたい、ではなく、相手を思いやるという段階で思考を打ち止めにする。考える前に行動するくらいの瞬発力が必要だし、思考停止しているので正しさの押し付けの性質を帯びるだろう。でも世の中ってそうやって回ってるんじゃないのか。楽観的な人々の純朴な優しさに救われたことは幾度となくあるし、出来れば自分もそうなりたい。そうなってみたい。多少ありがた迷惑がられてもいいので、取りこぼしたくない。取りこぼされると、寂しいから。
友人たちから概ね好意的な小説の感想が送られてきて、勇気づけられた。生業になるよと言われ、本当かなあとは思いつつ俺は単純なので、簡単に失った自信を取り戻した。不恰好な文章だけど、確かに気持ちを込めて書いたんだよな、ということを思い出すことができた。もっと色々書いてみようと思う。
夜は躁状態になって、読書をしながら色々な考えが思いついて楽しかった。寝る時になってもぐるぐると思考が巡ってなかなか眠れなかった。「早く寝なきゃ」と考えるから苦しくなるのであって、布団の中で脱力して色々考え事をしている時間は、実はめっちゃ楽しいんじゃないか、ということを思った。

4/2
身体の使い方について。無駄な力を抜かなければダメだというのは大前提だが、それだけではまだ足りない。脱力していると勝手な方向に流れていってしまうので、制御しなければならない。必死に制御しようとすると力んでしまう。力んでいる自分に気がついて、力を抜く。その繰り返しだ。心を澄んだ状態にしなければならない。
欲求について。お腹がすくことよりも、満腹で動けなくなることの方が苦しい。ちょうどいいというのは難しい。
セックスについて。セックスしちゃいそう、もしくはセックスできそうでできない、という時に生まれる感情が楽しいのであって、セックス自体にはあまり興味がない。
迷宮について、あるいは人生について。古典的な迷宮は一本道であるという。何度も角を曲がりながら円を描くようにして、中心に向かっていく。人には人の迷宮があって、それらは決して交わることはない。でも自分の迷宮と重なりあうように存在しているから、交わったような気がしてしまう。これが出会いと別れの正体ではないかと思った。
死者の魂について。人の生は死んだ後も終わらず、生きている人の意識と繋がりながら、学びを続けていくのだと以前本で読んだ。この説が本当なら、故人を惜しんで悲しむことは大切だとしても、故人の分まで幸せを感じる、ということも同じくらい大切なんじゃないか。そうじゃないと故人も浮かばれないだろう。無理して楽しい気分になる必要はないが、ほっとするとか、美味しいとか、そういった感覚の一つ一つをじっくり味わってほしい。それを感じることに罪悪感を抱く必要なんてない。それは生きている人にしか出来ないことだ。死者が自発的に出来ない以上、こっち側にいる人がやってあげる他ないんだ。
ゆうちゃんの様子を見に電車に乗って行った。疲れていたし、ホロスコープストップもかかっていたが、黒猫状態ではなかった。LINEの返事もなく、アポなしは流石にどうなのかと思ったが、先日の通話での憔悴した様子を思い出して、俺が躊躇してる間に尊い命が失われたら誰が責任取るんだ、と思った。俺だっていつも外側に開かれているわけではないので、出来る時に行動するしかない。迷惑だったら迷惑がられた時にやめればいい。近くまで来たから寄った、ということにしようと思った。実際間違いではない。気持ちが近づいたから寄ったのだ。インターホンを押すとき、犯罪的なことをしている気分になった。ゆうちゃんは出てこなかった。いないのかもしれない。ゆうちゃんが好きなブリトーをセブンで買ってきて、ごんぎつねのようにドアノブに引っかけておいた。

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