2022年10月のメモ①

人を魅了するような能力と、人を魅了させる能力は、別のものだと思う。人を魅了させる能力に優れてさえいれば、極端な話他に何の能力も持っていなくてもすごい人のような顔を出来る。芸能人とか歌手とか作家とかインフルエンサーより、身の回りにいるなんか面白い人の話をよく聞いたほうがいいと思う。


社会的な成功は実は才能よりも運の要素が大きいらしい。
幸運は主に人の繋がりを介してもたらされる。一方不幸はそんなの関係なくあらゆる方面から押し寄せてくる。幸運はそのまま活動の資源となるので、友達が多かったり実家が太い陽キャは成功する確率が高い。黙っていても不幸はやってくるので、人との関わりを避ける陰キャは勝手に自滅していく。


社会的な成功とかはあまり興味はないけど、困ったときに助けてくれそうな人が何人かはいないと、とてもじゃないが子育てなんて怖くてできない。


人生で起こる現象が全て運でしかないなら、体験したことについて何を学んだか、その感じたこと自体に意義を見出す他ない。ポジティブな出来事に対しては簡単だが、ネガティブな出来事にも同じように思うのは難しい(あんな体験をする必要はなかった)。でも結局は自分を形作っているものはそれらの総体でしかなく、自分自身を受け入れられるかどうかということになってくる。


多分人生の方からしたら愛も暴力も痛みも快楽も区別はないのだろう。色んなものをただ無造作に与え続けるだけ。自分が通り抜けてきたそれらの体験をどう意味付けていくか。あるいは意味付けを諦めるか。
無理して一貫性を持つ必要はないと思う。


こういう時は「自分」を意識させるものは全部だめだ。楽しいことじゃなくて楽なことだけをやり続けよう。苦しいことをして楽になれるならそれでもいい。


死にたい気分の時の感覚は、あらゆることがめんどくさいという感じだと思う。もちろん月曜日になったらまた仕事が始まるのが嫌だし、対人関係は覚束ないし、結婚とか将来のことを考えると不安になる。でもそういうことじゃなくて、もっと根本的に、自分が自分であることに疲れたとか、何かを感じることに疲れたという感じがある。やりたいことはいっぱいある。ウユニ塩湖とか青の洞窟に行きたいし、英語をもっと勉強したい、まだ読んだことのない名作を読みたいし、もっと良い曲を作りたいし、もっと複雑なプログラムを組めるようになりたい、凛と澪の成長を見守りたい、美味しいものいっぱい食べたいし、セックスももっとしたい。でもそれらをやりたいと思うこと自体に疲れたと思う。同じように、恋人や友達、大切なものがたくさんあるということがしんどくてたまらない。そんなこと言っちゃだめだろと思うけど、正直に言うとこうなる。


セックスなんでこんなにグロくて生々しい? 海ほたるは求愛の時に青く光るという。人間の求愛ももっとそんな幻想的な感じだったらよかったのにって思ったけど、よくよく考えれば、海ほたるから見たら青く光るのも人間のと同じくらい生々しくてエッッッて感じなんだろうなぁ。


奈緒を取ればなすを失う。なすを取れば奈緒を失う。いや、そもそもこの人たちを大切に思う気持ちは消すことができないので、俺は誰も失うことができない。この2択は前提からして間違っている。思考放棄して楽な方(別れる)を取れば、何故ちゃんと向き合わなかったのかという後悔が付き纏う。同じく思考放棄して現状維持を貫けば、また同じようなことが何度も起こる。だるい。何かを大切に思う気持ち自体が無くなればいいのにと思うけど、そんなロボットみたいに生きれたら苦労しないだろう。根本的な解決とはなんだろう。どこまでが自分の領分で、どこからが奈緒の領分で、2つが交わる場所はどこか。交わらない場所に無理して踏み込むと、また傷つけるような言葉を吐くことになる。何度話しても何も噛み合わない。自分を責める声ばかりが内側から聞こえる。死ねば全部解決する。もっと他の選択肢はないのか。


別になすとセックスしたいわけでも恋愛がしたいわけでもないけど、彼女が自分にとって「重要な他者」であることは逃れようもない事実で、この気持ちを制限されるような状態はつらい。


あっけらかんと生きている人間からすれば、対人関係を大袈裟に捉えすぎているように見えるだろう。


死ねば……とか考えてる自分にうんざりする気持ちも、死ねば解決する。


基本的にほとんどの問題は時間が解決する。時間が解決しない場合は、解決してはいけないという呪縛が多分ある。


駅前にいた女性が、待ち合わせしていた男を見つけた瞬間ぱたぱたと小走りで近づいて、人目もはばからず思いっきりハグしたのを見た時、なんだか幸せな気持ちになった。そういうのを見るだけのおばけになりたい。


母親から「竜侑」と呼ばれる時、それは大抵怒りを含んだ、否定する響きを持っていた。今でもあの緊張をありありと思い出すことができる。大人になってから、自分のことを柔らかく優しく、肯定する響きで「竜侑」と呼んでくれる人と何人か出会った。大体の友達は自分のことをりゅうと呼んでくれる。それは新鮮な喜びであると思う。


強い子に育つようにわざときつく当たったりしていた、と幼少期の暴力についての釈明を受けたことがある。自分が弱くて子供時代にいじめられたりしたので、そういう苦労をせずに済むように、と。でもその時の自分はまだ向き合う準備が出来ていなかったので、何か曖昧な返事をして、その話は終わった。
ずっと何年ももやもやしている。
きつく当たったら強くなるってなんかそういうデータあるんすか?と問い質したい。あんたは子供の頃兄にボコボコにされて強くなれたのかと。子どもの頃の不甲斐なさを大人になるまでみっともなく引きずってその自己否定を俺に投影していただけだろう。そういう躾だとか言って正当化しながら。とんだ迷惑な話だ。
一度はそういう文句を思うままにぶつけてみるべきなのだろうか。そうすれば多少はもやもやしなくなるだろうか。きっと期待するような答えは返ってこないだろう。自分の考えをはっきり喋れる自信もない。余計もやもやが増える可能性も十二分にある。というか、自分の気分を良くするためにそんなこと言っていいのか……などと躊躇う理由が無限に出てくる。何よりも、さっき考えた母親への文句が、全部自分にブーメランのように跳ね返ってくる……


自分には思春期がなかった。ただただ恐ろしい混沌があっただけで、分裂した自我は統合されなかった。その証拠に、こんな歳になっても自分という存在が何なのかよくわからない。昨日の自分と今日の自分は、もう決定的に違っていると思う。表面を覆う社会的役割が仮初めの同一性を保ってはいるけれど、それらは記号のようなもので、いつでも消してしまえる。


もし自分と奈緒の問題について、何も知らない第三者の立場からアドバイスするなら、「そんな辛い思いしてまで一緒にいなくていいんじゃない?不安だろうけど、別れても意外と大丈夫だと思うよ」ということになるだろう。そんで引っ越しの手伝いとかをするだろう。


お互いを尊重できなくなった時が離れるタイミングだ。我慢して役割を全うするような不健康な関係に、堪え性のない自分が耐えられるはずがない。その時々で必要に応じて寂しさを満たすような刹那的な人間関係が、自分にはお似合いかもしれない。


出来事そのものが悩みを生むのではなく、出来事の受け止め方が悩みを生む。なすに会いたいという気持ちに理由を求める必要はないが(悩みではないので)、なすに会いたいという気持ちを制限されることに不快を感じる理由は、明らかにしなくてはならない。


1日に何回もTwitter見てた頃みたいに1日に何回もnote見てしまう。せっかくTwitterやめたのに。右上の通知マークの赤い丸を見るたびにいいねへの渇望みたいなのが湧いてくる。SNS怖い。


好きなことですら2、3時間が限度なのに、1日8時間働くとか正気の沙汰じゃない。


破壊の限りを尽くしてやりたい放題やってる割には、人類は大して幸福になっていない。


安心を補強する材料はこの世には無数にある。立派な過去を持っている人間は、自分は安心を脅かされない権利を持っているのだとごく自然に考える。だけど、どんなに安心感で周囲を覆っても、何も持っていない素の自分を受け入れることが出来ない限り、内から湧き上がってくる不安それ自体が消えることはない。
自分は自分ですらなく、一個の存在でしかないことを受け入れること。


陰キャと陽キャはどちらかに偏っている時点で結局は似た者同士であると思う。陰キャは不安を埋めようとするのに対し、陽キャは安心を補強しようとする。それらは存在の不安に由来するという点で同じだ。真面目か真面目じゃないかくらいの違いしかない。本当に幸せな人間は、別に何もする必要がなく、ただ目の前の幸せを静かに味わっている。


生きようと必死になっている者によく生きようなどという発想はない。


愛なんていうふわっとしたものじゃなく、安心感が不足しているのは明白だ。いや、安心を受け取る脳の部位の問題か。
人は安心しないとよく生きられないのだろうか。
たとえば手のない人の足の指が器用になるように、盲目の人の聴覚が鋭くなるように、安心や不安に囚われない何か新しい生き方があるのではないだろうか。それが何なのかは全く想像もつかないけれど。
とにかく、なけなしの安心感に縋って生きていくような生き方がみじめさを助長していることは確かだ。


世界が私という異物を飲み込み、私はただ消化されるのを待つしかない、みたいな気分。


俺が奈緒に対して怯えてるようじゃ、奈緒も安心できないだろう。


身体は他人に対して開かれているが、自分に対しては開かれていない。同じように、意識は自分に対して開かれているが、他人に対しては開かれていない。身体と意識は繋がっている。2つのものが掛け合わさっているのではなく、同じものの両端である。


何も気にせずにやりたいことをやるといい。自分を自由にすることが相手を自由にすることにもなるのだから。


海のそばの民泊に泊まった。部屋まで聴こえる波の音が、台風の日の風と雨の音にとてもよく似ていて、あぁ、自然ってそうだよなと思った。


奈緒の思い付きで急に占いの館に行った。
前世占いというのをやってもらって、俺の前世は「群れに馴染めず餓死した鳥」だと言われた。狩りのやり方とかを教えてもらわなきゃいけないんだけど、なんか色々言われるのが嫌すぎて仲間を全員拒否して餓死したらしい。そういうわけで集団とか社会性に関するカルマを背負っていると。本当に前世などというものがあるのかは置いといて、なんだかとても自分にしっくり来る説明であると感じた。前情報なしでいきなり自分の問題点を言い当てられたような感じだったので、驚いた。
かなり印象に残って、後々何回もこのことについて考えた。
ちなみに奈緒は「人の女を略奪した男」であり、正しさや誠実さの業を背負っているとのことだった。これも俺から見たら納得できる話だと思った。奈緒の真っすぐさは時に俺を傷つけることがある。


占いとカウンセリングの違いについて。たとえば問題Aと問題Bと問題Cがあって、互いにごちゃっと絡まり合ってどう向き合っていけばいいのかよくわからなくなっているような場合には、心理学的に問題を分解して分析するようなアプローチよりも、占いなど直感的なものの方が即効性もあって有効な気がする。ただ、じゃあ具体的に問題Aをやっていこうとなった時に、占いだとふわっとしたアドバイスしかできないので、弱い。こういう場合にはきちんとした分析が必要になる。


奈緒が論理的でなくなればなくなるほど、俺は論理に固執してしまう。


音楽は今や完全にただの趣味になった。この調子で色々なものの執着をなくしていって、最後には恋人と付き合ってるのも趣味、生きるのも趣味みたいな感じになれれば楽でいいなぁと思う。


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