日記殴り 2024/4/17~4/23

4/17
何を日記に書くのか、書かないのか、明確な意図を持って選択していきたいと思った。そうしないと公開した後に苦しい。誰かの目に触れることを想定して書かれた文章は、日記ではない。それは手紙だ。言いたいことがあるなら直接言えばいい。自分にだけ残したいこと以外は残さない。自分自身の中に深く深く潜っていくような文章に、勇気づけられてきた。だから俺もそうしたい。
日記に書く内容の取捨選択を練習するのと並行して、人との会話でも自分の発言に対して意識的でありたいと思った。今パッと思いついたのは、自分がそれを言うことで相手にこう思ってもらいたい、という願望に基づく発言を一切排除すること。そうした願望は、相手に対する敬意がない。相手を自分の都合のよい存在と見なしていないか、意識的になること。そこに意識的になれたら、次は自分の予測のつかない方向へ会話を転がしていくこと、そうすることできっと相手をもっと深く知ることができる。これを実践するためのシンプルな方法として、自分の話をするのをやめて質問を多くする、というのは有効だろう。ただし相手が自分に対して何か求めているものがある、ということを感じ取った場合には、この限りではない。俺が自分で一番やりたくないと思っていることは、自分に向かってくる相手を無視するということだ。そうした場合に必要となる自分語りをストックしておくために、日記を書いているという面もある。相手に必要とされて、それに即した応答をする中で、そこに自分の願望が混ざり込まないようにするのは容易ではない。メサイアコンプレックスという語がそれを端的に表している。だが俺が求めているのは、あくまでも対話を通して深い場所に行く、考えもしなかった何かが不意に転がり込んでくる感覚だ。願望は自分を自分の膜の表面に押し留める。だから、それも練習していきたい。外側へ向かう練習。
感情で動くのではなく、意志で動く。その言動が感情によるものか、意志によるものか、常に見極める。
内側の奥底で煮えたぎるマグマ、というイメージが湧いた日から、日課で生活をガチガチに固めた。朝、コーヒーを淹れて、ノートに手書きで誰にも見せない文章を書く。三十分英文を読み、出勤の時間までsupercolliderの勉強をする。帰ってきたらすぐさま飯を作って、風呂から出たら、一時間かけて日記を書く。それから小説を書く。寝る時間まで本を読む。日付が変わる頃に床に就くのが理想だけど、頭の中がハイになってしまって、なかなか眠ることができない。とにかく楽しすぎる。一人の世界は楽しいということを、ずっと忘れていた。目の前の対象に100%全力で取り組んでいる時、頭の中が静かだ。自分の身体を、脳を、思い通り動かしていくことが嬉しい。他者の意図が介在しなければ、こんなにスムーズに動く。
算数だった。たとえば「次の休みの日にどこに行くか」と考えることは数学的な試みであるということを言っていて、それは面白い視点だと思った。人はないものをまるで本当にあるかのように考えることができる。それこそが全ての発端だ。電気が発明されたことで人は夜寝なくてもよくなった。ウランから核エネルギーを抽出できるとなれば、試さないわけにはいかないだろう、研究者としては。人類はこのままどこまでいくのか。飽くなき好奇心と探究心は人を不幸にするのか。学問をやるならそれを学んで何が出来るか、見える世界がどう変わるかということを一番知りたい。「同じ」とは何か、ということについて。二つの同じ種類のものがある、でもそれは位置が違うから同じじゃない。つまり「同じ」とは「大体同じ」という意味だ、そもそも比較対象である以上完全に同じではあり得ない。概数のように恣意的に決められている。何をもって同じとするのか、それは誰が決めるのか。数学的な意味での同じは「同値関係」という概念で厳密に定義されている。説明されたけど難しかった。
何日も躁状態だ。身体は疲れ果てているけど、まだいけるという気がする。気力がある。突然ガコンと落ちるのが怖い。

4/18
と言ってるそばからいきなり最悪な気分になって安心した。躁も鬱も三日続けばいい方だ。いつも通りのサイクル。もちろんこの事態を想定して、やることも決めてある。「ふて寝」「自慰」「瞑想」「散歩」「受動的なコンテンツ(映像や音楽)」どれがマシだろうか。どれも最悪としか思えない。外に出てでたらめに歩き回ろうかと思ったが雨が降り出して面倒なのでやめた。瞑想をした。というか、目を閉じて固まっていた。やってみたらマシだった。頭の中が騒がしいけど、部分的に脳が気持ちいい、という瞬間もある。
一旦こうなったら時間を稼ぐしかない。もがいてはいけない。待ちの姿勢でいること、と自分に残したメモに記されている。書かなくていい、とメモにはあったが、寝っ転がってつらつらと書いた。そうするのが比較的マシだったから。
ゴミみたいな気分だ。絶対に気圧と関係がある。
りゅうはずっと俺のそばにいてくれた。りゅうは蛇を捕まえたいらしい。鳥が蛇を捕まえるなんて無理だろう。食べられる。俺が協力するしかないな。猫は蛇も食べる。
りゅうは綺麗事ばっかり言っててウザい。内側のマグマ? 何言ってんだ? 自分に酔っている。勝ちたい。富と名声を手に入れたい。俺や母を価値のないものとして切り捨てた全ての上に立ちたい。そうすれば惨めだった俺の人生も、母も、報われるはずだと信じている。それしかないだろう。
怒っている。復讐したい。でも疲れてる。怒り続ける元気がない。怒るのは楽しくない。楽しいことがしたい。はちゃめちゃに頭が真っ白になってドキドキして何も分からなくなるような。自分以外全員殺したいというのは死にたいというのと同じだ、って何で読んだんだっけ。amazarashiの歌詞か。
とらドラ最終話まで見てボロボロ泣いた。「うちは三人家族だって言われて、毛穴がぶわーって開くみたいに嬉しかった」うん、そうだね。そんなのは夢みたいだ。誰も俺を愛してくれない。俺とりゅうを明確に区分するものは、きっと愛に対する態度だ。りゅうは純朴だから愛を信じている。俺は愛に復讐したい。白と黒、0と100くらい全然違う。
つまり怒っている。怒っている人間が騒々しいのは仕方がないことだ。だって怒っているんだから。怒っていない人間には分からないだろう。何怒っちゃってんの、と嘲笑うだけだ。俺には怒る理由がある。傷ついたんだ、とても。説明すればするほど惨めになってくる。それくらい分かれよ、何で分からないの、分かってよ、とそんな感情が燻って焦げ付いて子供みたいに泣き喚いて惨めになってくる。疲れているのは、期待していないから。というか怒る相手ももういないんだ。それなのに怒りだけが消えない。どうすればいいの。疲れた。
富と名声を手に入れたら怒りは消えるんだろうか。怒りが消えるということは、俺も消えるということか。俺はあいつが誰かを愛するたびにあいつの前に現れて、ほらね、やっぱり裏切られたと言いたいだけなんじゃないのかな。そんなんで満足して、クソくだらないな。俺は飼い慣らされちゃったのかな。
青野くんに触りたいから死にたいを読み返して、ニトラゼパムを飲んで寝た。

4/19
よく寝れた。薬が残って頭の中が静かだという気がした。空が晴れている。風が強い。
syrup16g聴くと落ち着く。ということは、俺は今悲しいんだ。
治りかけの傷って痒いな。

4/20
俺が何かを選択する時に指針となるのは、楽しいかどうかではなく、より深い意味が感じられるかどうかだ。小説と同じで、読みやすいけど中身がない話なんて、とても読んではいられない。人を愛するということにしてもそうだ。人を愛するのは面倒臭いし、恥ずかしいし、一人でいた方が圧倒的に苦しみが少ない、それでもこれは何か深い意味があると感じているから、中途半端なところで終わらせるわけにはいかない。ちゃんと最後を見届けたい。深い意味を感じるということは、多分黒猫と関係があって、そこに手を伸ばせば、それだけ死に近づくだろう。死なないように、無理をしないように気を付けないといけない。ギリギリの綱渡りをしている気分だ。並大抵のことではない。これも練習ということか。
何としてでもゆうちゃんを手に入れたい。ゆうちゃんについて、もっとよく知るために。それはアクセサリーのように所有したいということとは、全然違う。誰にも価値を認められなかった俺の代わりにゆうちゃんの価値を見つけたい、ということに過ぎないのかもしれない。でも知りたいという気持ちは本当だ。
勝ち負けよりも、安心よりも、見つけ出したいという気持ちを一番大事にしたい。
考える、というのは人間に特有の機能だ。だからもし死について知りたいのなら、決して死んではいけない。死後の世界があるとしても、人間の身体を失った後で、人間と同じように思考できるとは到底思えない。
変わりたい、と思わなくていい。むしろ今までやってきたことは全て練習だった、と思っていい。今までやってきたのと同じことを、これまでよりもよりよい精度で、確かな強度で、やり続ける。それで一生が終わったって、この自分として生まれてきたんだから、それでいいだろう。
次にゆうちゃんが近くに来たら、「あ、近いな」って思ったら、絶対に抱きめる。躊躇わない。そんな瞬間はもう二度と訪れないかもしれない。だから躊躇ってる時間はない。
ゆうちゃんとタイに行きたい。毎日ゆうちゃんにおはようと言いたい。セックスだってしたい。それは、全く筋違いな願いというわけではないんだ。筋違いな願いはそもそも起こらない。人を愛することに資格なんかいらない。

4/21
八時に起きて、コーヒーを淹れて、モーニングノートを書いた。シャワーを浴びて、英文を読んだ。十時半からスタジオだった。歌いながら、精神的なコンディションは悪くないという気がした。練習不足の懸念はあったが、なんとかちゃんとした形に持っていけそうだという手応えを感じた。自転車で町を通り抜けながら、道の脇にたくさんの古書が並び、大勢の人出があるのを見た。フリーマーケット的なものが開催されているようだった。
昼食に野菜スープを食べて、少し横になって休んでから、町の様子を見に行った。「みちくさ市」というのぼり旗が立っている。ほぼ五メートルおきくらいに古書、古書、古書の露店がずらりと並び、大興奮を禁じえない。なめ回すように全ての棚を見ていき、十冊くらい購入した。自分の人生に関係ありそうな本を発見した時の「おっ」という感覚には、喜びがある。特筆すべきは昭和三年刊行の「シャーロック・ホームズ」、二百円だった。よく百年もの間持ちこたえた。旧字体で書かれた文章を見ると、もうそれだけでタイムトラベルできる。銀行で振り込みをして、コーヒー屋さんでコーヒー豆を買って、帰った。
なすから体調不良で出演キャンセルの連絡があり、ガックシだった。ほとんどなすに聴いてもらうために練習していたようなところがあったため。なすの歌も聴きたかった。しかしどのような状況下であっても全力を尽くす他はない。
支度して、電車に乗って高円寺に向かった。高円寺は歩いている人のほとんどが知り合いの知り合い、という感じがして、居心地が悪かった。十五時四十五分から入場無料のイベントで杉浦さんのライブがあったが、じっくり古本を見ていたせいで全然間に合わなかった。でもまあ様子を見に行った。高架下の蒸し暑い倉庫で、人々がどんちゃん騒ぎを繰り広げていた。明らかに酒を飲みすぎている感じで赤い顔をした杉浦さんがいて、杉浦さんによるとこの空間は竜宮城であるらしい。女についてキモい話をペラペラと捲し立てたが、杉浦さんもギリギリの精神状態で何とかやっているようだった。きっと生い立ちや何かに起因する、人と関係したいという執念に焦がされていて、苦しみに関して共感できる部分しかなかったが、こういうこと言うとあれだけど、ちょっとなんか同族嫌悪を感じてしまって、本当にキモい。でも杉浦さんはマッチョで清潔感があるのでまだ許されるかもしれない。俺の場合は、こんな感じなのに背が低くてファッションに関心がなくて顔もかっこよくないので、本当に救われない。躁状態だったため好き勝手何でも喋った。三十分くらい滞在した。
無善寺の入り口に「死で終りなら全員敗者」と張り紙があり、そうだよなと思った。出演者を書いた紙にはyou are so blueに赤線が引かれ、病欠と書かれていた。数年ぶりに対面した無善菩薩は、十年前よく出演していた頃にもう七十代であったため、もうヨボヨボのジジイになっているかと思ったが、全然そんなことはなく背筋がしゃんとしていて凄いな、と思った。それどころかこの人はずっと少年の眼差しをしている。壁じゅうに貼られた電波の張り紙には、最先端物理学やオカルトめいた心理学のことが書かれており、最近は疑似科学的なものに凝っているらしい。俺のことは覚えていないようだった。男には関心がないのだ。
リハを終えて、菩薩と並んで椅子に座って、無音の中でシオランの本を読んだ。菩薩はヘッドフォンをしてYouTubeを見ていた。高架下にあるこの店の真上を、時々電車が通ってガタガタと揺れる。まったりとして、癒される一時。ここで本を読むためだけに、またライブしに来たいということを思った。昔よく出ていた時も、出番前にこうやって静かに本を読むのが好きだった。店内は色々とカオスだけど、何故か静謐な空気があり、多分本当に寺なんだと思う。
出演者が出揃った。菩薩は「カフェオレ飲む?」「みかん食べる?」と様々なものを手渡してきて、孫が遊びに来た時のおじいちゃんのようだ。飛び込みの客が二名入っていた。
菩薩の説法が始まった。軽快なビートと耳をつんざく電子ノイズに彩られた、アバンギャルドな説法だった。「生まれ変わりは普通にあります。生まれ変わりは普通にあります。」作風は変化していたが、根底にあるエネルギーのうねりはあまりにも前と同じで、気迫があった。俺のじいちゃんは多分無善菩薩と同世代で、ヨボヨボになってしっこもうんこも垂れ流しながら死んだのに、この違いは何だろう。妖怪かな。
二番目は自分だった。躊躇わずに真っ直ぐ歌えた。ただし、練習不足、この一言に尽きる。演奏をミスるので気が散った。気を散らせないために、演奏はしっかり固めるべきなのだと思った。朝の練習とリハで喉を使いすぎたため、静かな曲の時に声がガラガラだった。ところどころ、上手く言えないが「一番高いところ」に届く感覚があったため、完全にダメというわけではないだろう。最後に一番練習不足の曲を持ってきたため、消化不良に終わったのは残念だった。
【セトリ】
蛇の女
帰り道
呼びかける
犬みたいに
鳥は泳ぐ

他には、表情筋まで使って踊る踊り子や、ガットギターでラップするトム・ヨークっぽい人や、純情ロックンロール少年がいた。みんなそれぞれ面白かった。それぞれ最高~とぶち上がる瞬間が最低でも一回はあり、濃い一日だったという気がする。変な走馬灯を見せられた気分だった。なすがいれば、もっと良かった。なすはきっと、無善菩薩を気に入るだろう。五月にもなすと無善寺に出る予定がある。
帰りは雨だった。帰りながらライブの録音を聴いたら、結構かっこよかった。これできちんと練習をして演奏が固まった状態であればどうだろう、それはかなり興味深いという気がする。人に評価されるかどうかは差し置いても、何かしらに手が届くんじゃないかという予感がする。でもやっぱり、何のために歌うんだろうというところがどうしてもあやふやで、頑張れるかどうか分からない。自分の力を証明するため、という理由では頑張れない。

4/22
何のために歌うのか。そんなのは簡単だ。いつか時が来たら、なすやほうしょうやあかりさんやゆうちゃんに俺の音楽を届けるために、常に完璧なライブが出来るように準備しておくべきだ。
他人は永遠の謎、という原則がある以上、アプローチしたい相手がいる場合、数撃ちゃ当たるで闇雲に球を投げまくるしかなくて、その結果について一喜一憂してもしょうがないんじゃないか。
憂鬱の膜がぴったりと俺の全体を覆っている。ご飯食べたら元気になるとか、睡眠を取った方がいいとか、そういうレベルじゃないんだ。こういう感じの時はもう、何をしてもだめだ。
何かを思わざるを得ない場合にのみ何かを思う、という感じにしたい。
雨の多い春だ。朝スパコをやる時間が少なすぎると感じていたので、更に三十分早起きしたが、PCの前に座ってエディタを見ると目がちかちかして、もう何もやる気がしなかった。諦めて読みかけの本を開いた。「生まれてきたことが苦しいあなたに」思想家シオランに関する本だ。第一章では「怠惰」について扱っていた。曰く、何かを頑張ってやるという溌剌とした精神こそが全ての不幸の原因であり、それらを拒否する怠惰こそ最も高貴な態度、ということだった。この思想は今の俺の精神状態にフィットした。その通りとしか思えない。シオランの思想に照らしてみれば、俺の良くない部分は、いても立ってもいられなくなるところだ。たとえばゆうちゃんがツイッターで病み散らかしているのを見て、何とかしてあげたいという感情が湧くとする。そうした場合、でも迷惑だろう、俺なんかが、という反発が必ず内側で起こり、何故そんな感情が湧くのかと苦しんでいたが、シオランに言わせてみればそれは迷惑以外の何物でもなく、迷わず何もするべきではない。良かった、そんな風にはっきり言いきってくれる人がこの世にいて、良かった……。

私たちのいる世界は、みんなが全力を出しながら、交互に奴隷になったり暴君になったりしている、錯乱した世界である。行為や実現を拒否することで、行為の悪にも世界の錯乱にも同調しないことを示すこと、これこそがシオランの言う、怠惰の高貴さなのである。

生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想 / 大谷崇

逆説的に、好きな人のために何かしたいという気持ちが湧くことは、仕方がないことだ、と思った。錯乱した世界に生きているんだから。もういい加減、何が正しくて何が間違っているかジャッジしていくのが面倒だと思った。
夕方にかけて意識の反応速度が上がり、きびきびとした動きが戻ってきた。厚く覆っていた雲が消えて茜空が覗いている。何のことはない、気候に左右されているだけだった。
夜ノーアポでゆうちゃんちに行った。お前ちょっとそれは危ないぞともう一人の自分に言われたが無視した。何故このような大胆な行動を取るのかといえば、ひとえに拒絶されていないからだ。拒絶されたらやめるつもりではいる。俺が拒絶されたらやめる能力を有していることは、今まで一度も奈緒の家を見に行ったり、凛の通学路で待ち伏せしたりしていないことから言っても、明らかだ。多分俺はアスペなんだと思う。これまで何人かに指摘されたことがある。そしてゆうちゃんに対して自分がアスペであることを隠す気が全くなかった。それはゆうちゃんの言動にもほんのりアスペ臭さが香っているからだ。普通にゆうちゃんロスだった。ツイッターで病み散らかしていたので、何か言いたいという気がしたが、俺も病み散らかしているので、一体何を言えるというのか全く判然としなかった。とにかく家に行きたいという衝動に抗うのが億劫だった。
もちろんゆうちゃんはいなかった。ローソンの前で煙草を吸った後、どん兵衛と煙草を購入して、ごんぎつねのようにドアノブに引っかけておいた。すぐ帰った。電車の中ではずっと日記を書いていて、平日夜の過ごし方としては予定どおりだった。駅から家まで往復三十分あったが、自分宛のメモで調子がよくない時には散歩が推奨されていたので、これも想定したとおりだ。
ここまで先回りして書いていたが、ピンポンしたら普通に会えた。ツインテールが可愛い。会えるとは思っていなかったのでびっくりしたし、人と話すようなテンションではなかったためなんか変な感じになった。「ノーアポで家来るのってやばい奴だよね?」と訊いたら「やばい奴だと思う」と言われた。ゆうちゃんは思ったより元気そうな感じで溌剌としていたので少し安心した。スペアリブのようなものを油で揚げている最中だった。料理をするとはゆうちゃんにしては珍しいという気がして、この後誰か来る予定なのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。部屋はまあまあ散らかっていた。
ベランダでじゃがりことスペアリブのようなものをつまみながら、酒を飲んだ。7%のロング缶を二本飲んだらかなり酔っ払ってぐでぐでだった。久しぶりに酒に酔ったという気がする。死の話をした。偶然だったが、今日は拓海くんの四十九日だった。シオランの話もした。酔いとともに憂鬱は麻痺して、色々と早口で捲し立てた。ゆうちゃんが悲しげなボカロ曲を流して、いい曲だったので泣いてしまった。
酔っ払って書いた恥ずかしいメモは恥ずかしいので消した。
何か大いなる勘違いをしているような気もするが、共鳴し合っていたような感覚があったのも事実だ。充分過ぎると思った。セックスより濃い、ということを思いそのように言ったら、嫌がられた。
「後で深夜徘徊行こうよ」と誘われたが、部屋に入るなりゆうちゃんはベッドにダイブして、「五分寝たら」と言い残してそのまま寝入ってしまった。同じことが前にもあった。アルコールで意識がぐらぐらしていたが、部屋を片付けたり、ゴミを捨てたり、洗い物をした。これをやりにきたのだ。風呂に入って、歯を磨いて、寝た。

4/23
五時半頃ゆうちゃんが目覚めて、風呂に入った後ブリトーを食べていた。酒で寝落ちした後中途覚醒で風呂に入ってブリトーを食べるのがルーティーンらしい。この時間のことをゆうちゃんは「ブリトータイム」と呼んでいた。ブリトーを食べながら酒をがぶがぶ飲んでいた。少し会話をした後「寝なきゃな」と言って寝た。
夢うつつの意識の中で、ゆうちゃんが微かに立てる寝息や物音に耳を澄ませながら、かなり鮮明に奈緒と住んでいた家の様子を思い出すことができた。まるで実際にそこにいるかのような鮮やかさで、まだここまで記憶があることに感動を覚えた。多分覚醒している時にはここまでたどり着けない。隣の部屋に奈緒がいるような気がして、懐かしかった。やがて眠りに落ちた。夢にゆうちゃんとゆうちゃんのお姉ちゃんが出てきた。かなり面白い夢だった。
ゆうちゃんの絶妙にダサいアラームの音が鳴っていた。八時半に起きた。朝方がぶがぶ酒を飲んでいたので今日は休みなのかと思ったが、全然そんなことはなく、ゆうちゃんも一緒に起きた。「起きたくねえ~」と言っていたが、起きて顔を洗っていた。「おはよう」と言った。寝起きのゆうちゃんを見ながら、どう見ても同棲カップルだな、これは、と思った。ベランダで煙草を吸いながら、昨日から今日までの一連の流れを思い返して、こういうことがやりたかったんだよな俺は、と思った。全てが思い通りになっているのでなんかちょっと怖い。
空にはどんよりと雲が立ち込めて、涼しい気候だった。ゆうちゃんより一足先に家を出た。プラゴミと、ペットボトルと、段ボールを持って階段を降りながら、キャンパーズ精神、ということを思った。望んだものを与えられて、良い気分にさせてもらっているのだから、来た時よりも良い状態にして帰らなければならない。次はいつ来れるだろうか。しばらくは我慢しようと思った。エネルギーを貰ったのか、癒されたのか、心の中が整って思考がクリアになった、という感覚があった。ここで得た力を静かに、一人で行う活動のために使いたいという気がした。

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