メモ

自分ができないことを平然とやってのける相手に対しての嫉妬を、社会の常識のような体で人にぶつけるなよ。やってること通り魔と一緒だからな。

苦しくなるのは、こうあるべきという理想を思い描いているからだ。たとえば重力は鬱陶しいけど、誰も重力に対して反感を覚えたりはしない。そういうものだと思えばいい。

誰かを好きになる時には、手のひらを返したようにその人を嫌いになる可能性を考えた方がいい。

新幹線で「ちょっと倒していいですか?」っていう予定調和なんなんだろう。だめですって言ったらどうするんだろう。

自分の曲や演奏や表現について思い煩って評価するのはやめよう。何故なら受け手側の気持ちは永遠に分からないから。ただ、演奏中に気が散らないように練習だけはしよう。絶対間違えないような簡単な曲だけやる、というのも手だ。俺は快楽主義者だから、禅みたいな状態に手が届けばそれでいい。自分で引っかかる部分だけを排除する。足すのではなく引く。そこに他者の意思を介在させてはならない。引いてはいけないものがあるから。

怒るっていうのは生き生きとしている人間がやることだ。そういうのは、俺はもういいや。

欲望がなければ対象も存在しなかった。

俺ぐらい脳内麻薬ぶちぎまってる奴ってなかなかいないんだよな。俺ぐらい脳内麻薬ぶちぎまってる奴が人間関係を一生懸命やるとやばいんだよな。

曲本来が持つ完璧な姿を追い求めていたのが良くなかった。そんなものは存在しない。出てきたものが全てだ。今日の俺、と思いながら録音すると無駄に気負わずに済む。

優しい言葉は、言われる方よりも言う方が気持ち良くなっていることの方が常だ。

「主体的に生きろ」というメッセージは、その意見に従った時点で主体的ではなくなるので、メッセージとして矛盾している。

和樹くんに後悔しないように生きろとお説教されたことがずっとムカついている。善意による発言には違いないので、余計に。後悔する生き方をしているように見えたのだろうか?

ほどほどに腐敗しているぬるい社会だからこそ自由に生きられるのだ。全ての不正が正されて、税金が全て正しく使われるような世の中になって、全員が目的意識に燃え始めたら、俺のような捻くれた人間は迫害されるだろうし、妹のような障害者は役に立たないので捨てられるだろう。

二、三回真剣に恋愛をしてみて、真剣に恋愛をすると疲れるということが分かって、衰弱した人間、言い換えれば自由で寛容な人間に少し近づいた。

後悔しないようにと思えば思うほど結局は後悔する。そうじゃなくて、後悔するという概念をなくせばいい。後悔するということは過去を振り返っているということで、過去なんて振り返らなければいい。過去を振り返る時間をなくせばいい。

お父さんとお母さんがセックスをしたということは、今俺が俺という意識を持って生きていることの説明にはならない。

自分で良いと思っている部分と人が自分に対して良いと思っている部分はかなりギャップがあるので、とりあえず何でもやってみた方がいい。

音楽は大袈裟であるべきじゃないという思想に従うなら、ステージに立った時の特殊な状態は排除していくべきなんじゃないか。過剰さを減らして、家で歌っている時の状態に近づけていくべきじゃないか。

制御する曲、制御しない曲を分ける。行ったり来たりする。

何故ライブをしなければならないのか? 何故一人で完結できないのか? あの領域に到達するために、何故他人が必要なのか?

演奏しながら絵本を読むように曲のイメージを見る。

でかい声出さないとつまらないんじゃないかという強迫観念がある。こいつが全ての元凶である可能性。

やっぱりちやほやされたい。しかも何の努力もせずにただいるだけでちやほやされたい。心が震えたいだけなら部屋でオナニーしてた方が百倍楽しい。

他人に対して開かれている時にだけ湧き出る謎のエネルギーがある。

押さえつけられて生きてきた人間は、自分の感情に蓋をする。自分でも見えなくなるくらい巧妙に隠す。そういう風に適応する。でも、それだと良いように利用されるだけだ。自分の人生を取り戻すにはまず、自分の感情に即座に気付く必要がある。この反応速度は、訓練によって向上できる。常に自分の心の動きを俯瞰して眺めること。何が好きで、何が嫌いか、それはどのような感触を伴うのか、自分に問いかけること。日記を書くのは有効。

価値観は変数だ。遺伝や環境によって異なる値が代入される。もし何の値も入っていなければ、エラーを吐いて処理が止まってしまう(処理が止まっている状態を「むなしい」と表現したりもする)。だから、洗脳を解くには別の洗脳が必要になる。

じゃがりこはお出かけの時食べた方がおいしい。お酒は他人と飲んだ方がおいしい。

具体的な行為をしないと願いは消化できない。消化されない願いは心の底でくすぶり続けて、自分や他人を苦しめる。願いを無視しようとしても、あらゆる行為に願いは影響して、気づかないうちに介入してくる。願いを叶える努力をするか、願いについて考察するか、どちらにせよ願いに向かって直進するしかない。願いの奥に別の願いが隠れているということもある。
俺の場合「音楽で評価されて有名になりたい」の奥には「誰かに家族のように愛されたい」という願いが隠れていた。だから不特定他者に売れるための努力には一生懸命になれなくて、ただ目の前の人に音楽を聴いてもらって、自分の他とは違う部分で存在を認めてもらいたいということしかなかった。

俺はマゾヒストであることによって、性の加害性からある程度解放されている。というより、性の加害性に耐えられないからマゾヒストなのかもしれないが。でもそれはあくまで程度が抑えられているだけであって、本質的には結局加害性を孕んでいるのだと思う。この加害性を受け入れる相手というのは、同じくらい暴力的である必要がある。ビッチは優しいとか思ってた時もあったけど、別にそんなことはなかったな。逃れられない。

誰かを真っ直ぐ愛する気持ちは、もう持てないのかもしれない。思い返せば、ユリさんの時もゆうちゃんの時も、俺は相当無理をしていた。それだけ老いたということだ。というか真っ直ぐ人を愛したことなんて、今まであるのか。

男は大抵社会に属していて人を上下関係で判断するし、女は何考えてるか分かんなくて怖いし。あくまで傾向の話。男でも女でもないような奇妙な人間には安心感を覚えるが、時々ちんぽがすごく存在を主張して、男女の世界に行きたがる。やめて。

自分で許せないことをたくさんしてきた。自分で許せないからこそあえてしているという面もあった。こんな風に生きてしまった自分は、自分の人生が恥ずかしくて仕方がなくて、でも自分の意思じゃなくこんな世界に生まれさせられて、苦しんでもバカみたいだから、ふてぶてしく開き直っている。

今更真っ直ぐ生きようとしてももう遅い。それはあまりにも自分自身と乖離がありすぎて。

ゆうちゃんとのことがめちゃくちゃになって、ユリさんともめちゃくちゃになって、奈緒もいなくて寂しいから、曲がいっぱい書けて楽しくて仕方ない。俺は狂人なんじゃないか。

正味、おっぱいに挟まれてえーんと大声で泣きたい。それを想像するだけで、なんかちょっと泣きそうになる。胸が痛い。

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