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2024年5月7日(火)|人間的魅力とは feat.才賀紀左衛門

「うまく説明できないがすぐに恋人ができたり周りにたくさん人がいるって言うのは人として魅力があるって事だと僕は思うんですがどうでしょうか?」

才賀紀左衛門|ブログ記事引用文①

「しかし僕は圧倒的に語彙力がないから語彙力を鍛えたい」

才賀紀左衛門|ブログ記事引用文②

※情報元のブログにも飛びたかったのだが、タイムリーなタイミングで削除されていた模様。ていうか、削除されたから、冒頭に載せた記事が僕の認識に上がる場所に来ていたってこと?


というわけで。

え〜っと、まず、僕は、才賀紀左衛門氏のことは、皆無と言って良いレベルで存じていない、現に、今回、彼の発言を取り上げるにあたって、「名前ってどう読むんやろう・・・」の段階から入っている。あらかじめご了承願いたい。

で。

すぐに恋人ができたり周りにたくさん人がいるって言うのは人として魅力があるって事だと僕は思う

才賀紀左衛門氏の主張

僕は、この部分が気になったわけだ。彼もまた、「どうでしょうか?」と尋ねてくれている。よし、良い機会だから、じっくり考えてみようじゃないか。

ブログ読者のファン向けの質問なんだよ。お前は聞かれてねえよ。しゃしょり出てくんなよ。


さて。

すぐに恋人ができたり・・・。
まわりに沢山人がいる・・・。

「すぐに恋人ができる」というのは、恋愛観は、人間的魅力とは別の軸で考えるべきテーマだと思うので、一旦脇に置いて、「まわりに沢山人がいる」に焦点を当てて、考えを巡らせてみたい。

ふむ。確かにそうなのかもしれない、と思う一方で、これだけだと情報が不足しているのかな、とも思った。

例えば、まわりに沢山人がいる状況は同じでも、その人々の思惑が、“この人と一緒に居ると楽しい”なのか“この人と一緒に居ると自分に得がある”なのかで、意味合いは変わってくると思う。

つまり、損得を超えた付き合いなのか、損得感情としての付き合いなのか。前者ならば人間的魅力はあると言える気がする。だが、後者となると、他の部分、それこそ、富だとか名声だとか、人としての魅力とは別の観点で、“この人と関係を築いておけば…。”と、下心ありきで群がっている可能性も否めない。

その点がクリアにされていない以上、“何とも言えない”と答えるしか無いと僕は感じたのだが、この回答だと、拍子抜けしてしまうかしら?

ただ、ココまで考えると、その後に述べた言葉が、存在感を増してくる。

しかし僕は圧倒的に語彙力がないから語彙力を鍛えたい

才賀紀左衛門氏の補足説明

そう。彼自身、薄々と、気付いていたのだ。事実、前述した文章の冒頭にも、「うまく説明できないが」と書かれてある。本人の中でも、“この情報だけだと読者は何とも言えないだろうなぁ”という葛藤が見て取れる。

引用記事には「匂わせ発言」という見出しが踊っている。確かにそうとも受け取れるかもしれない。だが、匂わせる意図は毛頭無く、ただただ、自分の語彙力が拙いばかりに、どういう風に説明すれば、読者が答えやすい形での質問文を作成するのかが、頭を捻ってもよくわからなかった、という見方も出来るのではないか?

元パートナー絵莉さんとか、そういう芸能関連の情報は、何にもわからないので、完全スルーさせてもらって、先に進む。

もしも、仮にそうだとしたら、僕は、才賀紀左衛門氏の“無知の知”は、人間的魅力の一要素に成り得ると主張したい。

“語彙力”

個人的な見解であるが、僕は、有ればいいってもんでもなければ、無かったらダメってもんでもない、と解釈している。

“語彙力≠コミュ力”

こう考えると分かりやすくなる。語彙力を鍛えれば鍛えるほど人とのコミュニケーションを円滑にはかれるかというと、そんなこともない。

もちろん、ある程度はあったほうが良いとは思う。けれども、語彙力を鍛えるのに適している書籍を読んで勉強する、となるとどうか。あくまでも私見と断った上で言わせてもらうと、おそらく、逆効果になる。コミュニケーションを円滑にはかれなくなるのではなかろうか。

コレは、僕自身、耳が痛い話でもある。

例えば、自分の気持ちを言い表すのに最も適した言葉を探し当てる能力を鍛えるために、語彙力を鍛えた結果、レパートリーが豊富になったとする。

単純に考えれば、語彙力を鍛える前と比べて、自分が言いたいことを伝えるためのワードが、新たにポンポンと出てきた、となると、より相手に伝わりやすくなる、と思ってしまうものだが、ところがどっこい、意外とそうでもない。なぜなら、

“自分が伝えたい言葉”
“相手に伝わりやすい言葉”

この隔たりを無視しているからだ。


具体例があった方が分かりやすいので、今回は「狷介孤高」という言葉を使用しよう。

【狷介孤高】自分の意志を固く守って妥協せず、人と交わらずに超然としているさま。また、自分の意志や流儀を固く信じて、節度を保っていること。

狷介孤高|四字熟語辞典

この言葉を知るまでは、自身のことを「孤独」だとか「孤立」だとか、あるいは「ぼっち」などと言ってきたが、この言葉と出会うことで、「そうだ!俺は狷介孤高なんだ!」と、体に電流が走ったような気分に浸ったとしよう。

一昔前の俺やないか。

その後、「なんでいつも一人でいるの?」と聞かれて、以前のように、「いや、別に・・・」とモジモジするのではなくて、「狷介孤高を是としてるんでね」と、気取った口調で答えたとする。

自分の中では、「今の俺、完全にキマってるぜ・・・」と、自己陶酔モードに入っているかもしれないが、周りの人は、「コイツ何言ってんだ?」と呆れ顔になるのが関の山であった。

ちゃんちゃん。


・・・みたいなことが、普通に起きる。

ココに「語彙力≠コミュ力」の問題がある。言葉をただ知ってさえいれば良いわけではない。相手に正しく伝わる言葉を適切に選べるか否かがコミュ力の有無を決めるのだと僕は思っている。

才賀紀左衛門氏が言う「語彙力」が、何を指すのかは僕には分かりかねるが、僕が思う限り、“言いたいことはあるのだがどう説明すればいいかが分からない”という、モヤモヤした感覚を晴らせるぐらい、自分が言葉を巧みに操ることが出来たらいいのに、という葛藤が見て取れる。

芸能関連のゴタゴタで言えない事情があるとか云々は一切考えないようにしている。

もしそうだとしたら、僕は、誠実な人だなぁ、と感じる。語彙力が有るとか無いとか、コミュ力が有るとか無いとか、そういうものは別の話で、自分の弱みを直視して、受け入れ、その上で、何を為すべきか、ハッキリと声明出来るのは、人としての魅力があると言っても良いのではないかしら、そう思った次第だ。

“自分に正直に生きる”

当たり前に出来ているようで、実は、当たり前に出来ていない人が多い。どうしても、虚勢を張ったりだとか、ハッタリをかましたりしてしまう。僕の場合だと、“より自分の気持ちを言い表すのに適した言葉”というのを大義名分に、敢えて小難しい表現を書きたくなる衝動に駆られることもある。これは良くない。目の前の相手のことよりも、自身のエゴに支配されている証拠だ。

本当に語彙力のある人は、小難しい表現を沢山知っている人ではなくて、目の前の相手に応じて、多種多様な語彙を、ケースバイケースで、柔軟に使い分けられる人のことを指すのだと思う。

そういう人に、私はなりたい。

この決意表明を「こういう趣旨の発言をしておけば周りの人から好かれるはずだ」という下心ありきではなくて、「周りがどう思おうが構わない。私自身、心の底からそう思うから言っているのだ」と、ハッキリ主張出来る人に、私はなりたい。

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