見出し画像

筆或いは指のまま

言葉が浮かんでこない。最近少し落ち込んでいること、いつもよりも30分早く起きるようになってそのサイクルにまだ身体が慣れていないこと、おそらく原因はそのふたつだ。書こうとしたネタふたつをそれぞれ3行ずつぐらい書いてうーむなんか違うなと一旦筆を置き、電車に揺られながら(そう、こんな時間にもう電車に揺られているのだ)ぼんやりとドアの上の電光モニターを眺めるなどしている。

筆を置くというのも時代錯誤な言い回しだなぁと思う。僕はこの文章をスマートフォンで書いている。『筆を置く』ではなく『手を止める』、或いは『指を止める』が正しいのだろう。しかしどうも『筆を置く』の方がしっくりくる。それはどうしてだろう?理由はうまく言語化出来ない。おそらく明治時代の文筆家も、ペンで何かを書きながら『筆を止める』などと書いては、僕と同じようにううむと悩んだりしたのだろうなと思いを馳せる。

何も思いつかぬ時にこうして筆の赴くままに任せて書くのも、これまでに何度もやってきたやり方のひとつだ。言葉が浮かんでこないなら言葉を迎えに行ってやればいい。言葉の方に潜ってやればいい。虚飾を考えず何でもいいからただ言葉を拾って紡ぐだけならばいくらでも書ける。これもある種の特殊スキルなのだろうなと思う。これはある種の禅だ。黙して座して心を無にするのが座禅であるが、こうやってただ何かを書くことで無心に至ろうと試みる書禅があってもいい。無心というのは完全なる無ではなく、こうしてとりとめのない有をそのままに受け容れることなのかもしれない。

とは言え無心にただ書いていると書きながらも、ここには書けないようなことは書かぬように事務的に検閲しながら書いている。同時に誤字を訂正したりてにをはを整えたり段落ごとのバランスを考慮したり、あくまで見せ物たり得る校閲も行っている。それは全く自然に働く機能であるが、ピリリと邪魔くさいリミッターでもある。このリミッターを解除して、文章の体裁を整える機能さえ解放した時に自分の筆から出てくるだろう支離滅裂なあれやこれや、本当に筆の赴くままに書くってやつを見せてやろうか!なんてことを考えたりもする。

電車も仕事場の最寄り駅に着いて、さてそろそろ締めの文言を考え、読み手に媚びすぎぬ程度に適当にいい感じに終わらせようと考え始めた。ただ筆に任せて、息を吐くように、トイレを糞をするように書いた文章だった。それでも呼気からアルコールが検出されるように、糞便から健康状態が分かるように、筆者の考え方や心身の状態が推し量れるような文章になっているような気がしないでもない。雨ニモマケズ風ニモマケズ、毎日書くを続ける日々。こうやって何も書くことがない日の何もないを残しておくことが、もしかしたら一番価値のあることなのかもしれない。うん、これはいい感じの締めだ。これでいい。

よろしければサポートいただけると、とてもとても励みになります。よろしくお願いします。