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愛される側の人間

周りの人たちと関わっていて、ふとした言葉や考え方を聞くにつけ、あぁこの人は愛される側の人間なんだなぁ、僕とは根本的に違うんだなぁと思うことが時々ある。『愛される』を当たり前に持っていること。それはとても強い。僕はそれをとても羨ましく思う。

ここで『愛される』の定義だとか、何をもって周りの人たちが愛されるを持っていて自分はそうでないかと感じるのかとか、そういうことを論じたいわけでない。愛される側の人間が当たり前に装備しているものを自分は持っていない。それを時々感じることがあって、それが時々つらいんだと、ただそれだけのことである。それをここに書いて僕はどうしたいんだろう?どうされたいんだろう?同情?憐憫?ただ自分の中のモヤモヤとした感情を吐き出したいだけ?或いはそのどれもだろうか。

自分が愛されていないと感じるのには、おそらく自分にも問題がある。自分に問題があるから愛されないのか、愛されないから自分に問題が発生したのか。鶏が先か卵が先か、である。現状に不満があり、こうなりたいという理想のひとつが見えているのなら、そうなれるように努力をすればいい。しかしおそらく、僕はこれまでも自分なりにその努力を重ねてきて、そしてこれまでの努力の積み重ねの結果がこの現状なのだ。結果に結びつかぬ努力をし続けることはとても難しい。愛されたいと藻掻き足掻いても結局愛されぬ人生だった。その歪みが自分をいっそう愛から遠ざけている。

愛されるなんかなくったって平気ですよ?と強がることを覚えた。それでも誰かを愛してしまうことは止められぬ。愛してしまうと、愛されたくなってしまう。この無間地獄。愛などいらぬ!とサウザーが叫んだのは、愛することが苦しいからだ。愛しても愛されぬこと、愛する人と離れてしまうこと、それがとても苦しいからだ。愛される苦しみだってある?そりゃそうでしょうね。私にはそんなものは分かりませんけどね。部屋でひとりひっくり返って天井を見ながら愛について考える。とても面倒くさい時間だなと思う。

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