ポエム

ポエムじゃないよ、現代詩だよ、高尚な芸術なんですよ

最近noteを始めて気がついたのは、現代詩について書かれている記事が散見されることだった。noteを始めるずっと前から、心のどこかでなんとなく予感はしていたが、実際noteのハッシュタグに11600件以上も「現代詩」というキーワードがつけられていたのを発見した時には純粋に驚かされた。

現代詩なんてあまりにニッチな世界で、紙の媒体じゃほとんど売れない世界だ。僕も一応現代詩を書いている身として言わせてもらうが、現代詩人なんてものは、ある意味意識高い系のキモイ言葉オタク達の集団である(すみません、ごめんなさい、言い過ぎました)。

例えば新聞に「星空の彼方へ行こう 悲しみは地上において どこまでも羽ばたこう 眩い光の渦へ」なんていうポエムがあったとしよう。一般の人たちはきっと心の中で「うわっ詩って......恥ずかちぃ」なんて失笑するくらいが関の山だろう。しかし現代詩人はテーブルに新聞を放り投げ、肩をすくめてこう言わずにはいられない。

「ワトソン君、これを見たまえ。これこそポエムというものだよ、こうした詩のおままごとが言葉を衰退させるのさ。断じて僕は認めないね、こんなものが詩だなんて!」

ネットが一般化する前の20世紀末のころには、もはや現代詩は絶滅危惧種に認定されかけていた。いや僕が勝手に認定していた。

学生の頃から現代詩の同人会には入っていたが、周囲は皆僕よりずっと年上の方たちばかりで、それらの作品はなんとなく一昔前の詩の雰囲気を漂わせていた。今思えば単に僕が未熟だっただけなのだけれど、身の程知らずの僕はもっと先鋭的な言葉の連なりによる未知の表現を求めていたのだ。

社会人になって以降も詩は書いていたけれど、正直散文のほうが面白いと感じる自分のほうが強くなっていき、次第に以前より詩を書くことは少なくなった。

端折りにはしょりまくって、今僕は遅ればせながらこのnoteでわけのわからない文章を書いている。

そうして見つけたのだ。あのニッチな言葉オタクどもの巣窟を!(すみません、ごめんなさい、言い過ぎました)

noteが現代詩の居場所になっていること自体はまったく不思議ではない。需要の少ない現代詩を多くの人々に発表するプラットフォームとしては最適だ。だから僕はゴマをすりたい。noteの運営の方たちに。ありがとうございます。絶滅危惧種を救ってくれて。

※ちょっと悪ふざけが過ぎました。不快に思われた方々にはお詫び申し上げます。現代詩がより多くの方に読まれることを祈っております。
※そういえばブンゴクのことを忘れていました。(3月30日追記)



最後まで読んでいただきまして、本当にありがとうございました!