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反・伏線回収主義論

いつのころからか巷では「伏線」や「回収」という言葉があふれかえるようになった。「緻密な伏線」、「伏線が張りめぐらされている」、「みごとな伏線回収」……。書評や映画評などを読んでも、そんなコトバが氾濫している。まるでいかに巧妙に伏線を敷き、ドラマティックに回収したかが創作物を評価する判断基準になっている感すらある。

ここまでくると、もはや伏線回収至上主義である。私はこうした世間の風潮に深い危惧を抱かずにはいられない。なぜなら過剰な伏線には深刻な副作用があるからだ。

伏線とはなにか

ふく‐せん【伏線】 の解説
1 小説や戯曲などで、のちの展開に備えてそれに関連した事柄を前のほうでほのめかしておくこと。また、その事柄。「主人公の行動に伏線を敷く」

2 あとのことがうまくゆくように、前もってそれとなく用意しておくこと。また、そのもの。「断られたときのために伏線を張る」                                                                                          (『デジタル大辞泉』より)

伏線とは物語を創作するさいに使われる技法のひとつだ。何気ない描写がのちの展開に重要な役割をはたすことで、鑑賞者に驚きをともなう納得感をあたえ、カタルシスをもたらす。あるいはあえて鑑賞者にわかるように暗示して、次はどうなるのだろうかと物語世界へ引き込んでいく。要するにストーリーに面白味をあたえる巧妙なトリックである。


伏線の副作用

たしかに伏線は物語を魅力的にする効果がある。伏線が回収されたときの快感を鑑賞者が求める気持ちもわかる。だがあまりに過剰な伏線には重大な副作用が潜んでいる。

極端に多く敷かれた伏線、あるいは劇的すぎる伏線は、物語をリアリティから遠ざけてしまう。なぜなら現実世界はそれほど単純ではないからだ。この世界はというのは、むしろ矛盾だらけで整合性に欠けている。路傍の石がひとりの人間の人生を変えるなどという奇跡は、一生に一度も起こらないのがフツーなのだ。

リアリティの喪失は創作物にとって致命傷となる。現実性の欠如は、厳しい鑑賞者のするどい観察眼から免れることはできないだろう。その作品はにわかに空虚な絵空事としての正体を露わにしてしまう。

だから真にすぐれた作品にみられる伏線は流れるように自然だ。
あるいは伏線を逆手にとってリアリティを際立たせる。つまり物語の本筋とはまったく無関係と思われる描写を差しはさみ、それは結果最期まで物語の流れになんの影響もあたえない。無意味な一コマが作品の現実味を高めるのである。

伏線は技巧のひとつにすぎない

伏線は創作物をおいしくするための極めて有効なスパイスではある。ただし伏線はあくまでもストーリーメイクのための技法のひとつにすぎない。したがって、どんなにファンタスティックな伏線回収がほどこされていたとしても、それだけで作品の良し悪しを決定づけるべきではない。むしろ伏線回収が鮮烈であるほど、物語は現実味を損なっている可能性が高い。

最後にトルストイの有名な一節を挙げてこの記事を締めくくりたい。

芸術は技芸ではなく、それは、芸術家が体験した感情の伝達である。  
 (レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ)

最後まで読んでいただきまして、本当にありがとうございました!