落下する人

自殺が認められつつある世界で日本はどう死と向き合うのか

「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目を遮るものを前方に置いた後、安心して絶壁のほうへ走っているのである」

フランスの哲学者パスカルの「死」に対する有名な一節である。「死」が生命あるものすべての共通した終着点であることは疑い得ない事実だ。にも拘わらず世間一般、とりわけ日本では、生命の尊さばかりが謳われていて「死」に対しての肯定的意見はタブーのように扱われている。

たしかに私たちは生きているのだから、「生」を肯定することは当たり前だ。しかしよりよく生きることばかりが声高に叫ばれるのに対し、よりよく死ぬことに関して私たちはあまりにも目を背けがちではないだろうか。私たちは「死」についてもっと議論を深めるべきではないだろうか。

人生の終わりに対する一般国民と医療従事者の意識の違い

厚生労働省の行った、人生の最終段階における医療の普及・啓発の在り方に関する検討会の「人生の最終段階における医療に関する意識調査 報告書」(平成30年3月)に興味深い報告結果が示されている。

この調査では属性を①一般国民②医師③看護師④介護職員の4つに区分し、割合をグラフ化しているのだが、一般国民と医療・福祉関連従事者の人生の最期に対する関心度の乖離が浮き彫りになっているのだ。

例えば「人生の最終段階における医療に関する関心」について考えたことがあると回答した一般国民が59.3%であったのに対し、医師は88.6%、看護師81.7%、介護職員79.9%という調査結果が公表されている。

また「人生の最終段階について考える際重要なこと」については、「体や心の苦痛なく過ごせること」「家族の負担にならないこと」など14項目の選択肢が設けられた。

その中で「人間の尊厳を得ている事」と回答した割合が、一般国民は31.0%、医師63.6%、看護師58.8%、介護職員57.0%という結果となっており、やはり一般国民と医療・福祉関連従事者の臨終に際しての意識の深さの隔たりが見て取れる。

「人生の最終段階の関心度」はすなわち「死についての関心度」と換言して間違いないであろう。上記の調査に関して補足すれば、一般国民は医療・福祉関連従事者と違い日常の中で死と向き合う機会が少ないのだから、当然の結果だともいえる。

しかしそれでもなお、一般国民の人生の終わりや死に対する関心度の低さは問題視すべきではないだろうか。

到来しつつある「自殺」を認める時代

ここで改めて「尊厳死」と「安楽死」それぞれの定義をおさらいしておきたい。

「尊厳死」とは延命治療を中断して自然死を迎えること、「安楽死」とは医師など第三者が薬物などを使用して患者の死期を積極的に早めることである。

世界ではスイス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、カナダ、大韓民国、オーストラリア(ビクトリア州)、アメリカ(ニューメキシコ州、カリフォルニア州、ワシントン州、オレゴン州、バーモント州)で安楽死が認められている。

ただし安楽死の合法化は多くの場合、「病が治る見込みもなく、かつ病により耐えがたい苦痛を伴うこと」を条件としている。

しかし安楽死の先進国であるオランダでは、安楽死の概念が急激に拡大していることに注目したい。

オランダの安楽死にまつわる歴史は、1971年の「ポストマ医師事件」を皮切りに自発的安楽死が社会的な関心事として拡大していった。

「ポストマ医師事件」とは、難聴、言語障害、部分麻痺などで苦しみ、幾度となく「死にたい」と自殺を図っては失敗し死にきれずにいた実母を、娘であるポストマ医師が自らの手で安楽死させた事件である。

「もういいから早く楽にしてほしい」という母の願いを苦慮の末聞き入れ、自分の腕の中で母を抱きながらモルヒネを注射し、母を永い眠りへ誘った後、ポストマ医師は警察へ自首した。

ポストマ医師の起訴が公表されると、多くの市民や医師から彼女に対する同情と支持が集まり、「ポストマ医師を救え」という運動に発展したのである。

1994年の「シャボット医師事件」はオランダの安楽死の権利を大きく拡げた。2人の息子を失い、夫とも離婚し、生きる意味を見出せなくなった50代の女性が大量の睡眠薬で自殺を図った。しかし死にきれずかかりつけの医師に「死なせてほしい」と懇願するも、拒否されたため、自発的安楽死協会を通じてシャボット医師の診察を受けたのである。

シャボット医師は「自殺願望を消す手段がなく、このままではより悲劇的な死を遂げる」と判断し、医師や心理学者などと相談した末、女性を即効睡眠剤によって安楽死させた。

シャボット医師は自殺ほう助罪で起訴された結果、形式的には有罪であるが刑罰は課さないという判決を受けた。これによってオランダでは身体的苦痛という枠を超え、健康な人であっても自発的安楽死が認められたのである。

2000年には孤独を理由に安楽死を望んだ老人に、医師が致死薬を飲ませ安楽死させたという事件も起きている。裁判で起訴された医師は一審では無罪、最高裁では有罪となるも刑罰は課されなかった。

2002年にはオランダが世界で初めて安楽死を合法化し、ベルギー、ルクセンブルクも合法化に踏み切っている。

健康であっても自分の最期の日は自分で決めるという、人生における究極の権利を法的に認める未来が、オランダでは到来しつつあるのである。

「自殺」や「死」の問題に直面している日本の課題

オランダは個々の価値観に対して極めて寛容な国であり、LGBTはもちろんのこと、宗教観や倫理観に対してもそれぞれの意見を尊重しあう国民性を持っている。だからこそ、このような「積極的な死」という問題にも真摯に向き合えるのだろう。

2019年の世界幸福度ランキングのベスト10には、安楽死を認めているオランダ、スイス、カナダ、オーストラリアがランクインしている。因みに世界長寿ランキング1位の日本は幸福度ランキング58位である。

誤解されないよう断っておくが、この結果をもって安楽死を認めることが、すなわち人生の幸福につながるなどという短絡的な言説を筆者は唱えたいわけではない。まして安楽死や自殺を無意味に肯定しようと叫ぶつもりなど毛頭ないことは理解して頂きたい。

ただし人生100年時代、長生きがリスクといわれる時代を日本は迎えている。「自殺」や「死」について真向から対峙しなければならない時代はもうすでに到来しているのだ。「自殺」や「死」という事象に対するネガティブなバイアスは取り払い、もっと人生の最期について私たち日本人は真剣に考え、議論を深めるべきではないだろうか。

最後まで読んでいただきまして、本当にありがとうございました!