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神社で手を合わせるとき私たちは何に祈っているのだろうか

日本人は世界で最も「時に神を信じ、時に神を信じない」気まぐれな民族らしい。私自身よくよく考えると、神の存在を全否定できない自分がいることに気付く。無宗教にも拘らず、なぜか神社に行くと独特の神聖な空気が漂っているのを感じてしまう。自分が神を信じているとは言い切れないが、神を感じることはあるのかもしれない。

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大崎八幡宮は仙台を代表する、国宝の社殿のある神社だ。広大な杉木立が鬱蒼と立ち並ぶ森のなかに、厳粛な社殿や境内が静かに佇むさまは凛として清々しい。

私はここ数カ月、ある人生の重大な決断に迫られ懊悩していた。だがこの場所はその心臓を握りつぶすような苦しみを癒してくれた。

私は境内にある古い木のベンチに腰掛けた。遠くの方まで綺麗に並んだ驚くほど背の高い樹々の向こうには、午前の澄み切った空が広がっていた。水色のほのかなグラデーションに、水彩ですっと白くなぞったような一条の薄い雲が流れていた。粒のような5羽ほどの黒い鳥が様々に形を変えながら、群れをなして飛んでいた。

不意に風に揺れる木の葉がざわめいた。私はじっと耳を澄ました。自分の心に燻ぶっている迷いの答えをどこかしらに求めていた。そして顔を頭のてっぺんの方へ向けた。杉の樹々に囲まれた空が見えた。

「現在(いま)......。」

私は自分にそう言い聞かせたかったのかもしれない。

しばらくしてから拝殿でお参りをした。常日頃はどうしても周囲の目が気になって、そそくさと事を済ましてしまう。だがこのときは時間を忘れるように手を合わせ、目を閉じていた。拝殿の奥からお経を唱えるお坊さんの声が聞こえた。感染症を鎮める祈願祭を行っていたようだ。お経独特の抑揚のない低い声もまた、私の痛んだ心には心地よく響いた。

帰り道、歩道を囲む両脇の岩壁にたくさんのコケや葉が茂っているのを見た。なぜだか私はその緑に触れてみたくなった。そっと触れるとそれは柔らかく、とても愛おしいもののように感じられた。

「未来のことよりも現在を大切にするべきなのだろうか......。」

困った時の神頼み、とはよく言ったものだ。神社には何かしら神秘的な大気が、緩やかに流れていることを深く感じずにはいられない。

大きな存在に見守られるような心持で、私は境内を後にした。

最後まで読んでいただきまして、本当にありがとうございました!