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【第35回】その日のまえに 脊髄小脳変性症

Medipathyという活動の振り返りです。
活動報告というより、僕が思ったことを本や映画などを踏まえて考察を深めています。ちなみに掲載順はバラバラです。
Medipathyとは主に、医療系学生が昨今の教育ではあまり機会のない、患者さんのお話を深聴き、語り合い、そして笑い合うをテーマに月に一度のペースで開催しています。
参加ご希望の方は、こちらのリンクのお問い合わせからどうぞー。

今回の疾患は脊髄症の変性症です。
患者さんではなく、ご家族の立場から見える病気を小説風に書いてみました。


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のびた鉛筆


高速を降りて山中湖へ。
富士山が目に入る。妻は何度も「懐かしいね」と言った。やわらかい微笑みが浮かぶ。「20年ぶりだもんな」と私がいうと、
「すごいわね。」と、どこか他人行儀な口調で答え
「うん、ほんと、すごい」と小刻みにうなずいた。


「だいじょうぶか?」
私は妻を心配して聞いた。

「なにが?」
私からの突然の質問に対して聞き返した妻は、私の意図をすぐさま読み取ったのか
「ぜんぜん、平気だよ」と笑ないながら言った。

「すっごい、変わったね。この辺も」
ゆっくり、そして感慨深く、妻が言った。

妻と山中湖へ行くのは、何年振りだろうか。

はじめて山中湖に訪れたのは妻と結婚する前だった。
40年前、あの頃はバブルが始まる前くらいで、私も働き始めたばかりだったので給料も高くなかった。
それでも、妻(当時の彼女)に見栄をはるために月賦で車を買った。

良いカッコをしようと「車でどこに行きたい?」と彼女に尋ねると
「せっかくだから遠いところがいいな。そうだ!富士山が見たい!」
と彼女が言ったので富士山までドライブすることになった。
どちらも富山県出身なので
「わざわざ富士山まで行かなくても近くに立山連峰があるじゃないか。」
とは思ったが口には出せなかった。

山中湖で彼女と2人で写真を撮った。
当時はいまと違い写真のポーズなどなく、2人とも富士山をバックに、伸びた鉛筆が2本。2人ともが直立不動の姿勢で撮った。
初めての長距離ドライブと緊張で体が固まっていたことが一番記憶に残っている。

その旅行をきっかけに、私と妻は節目節目に山中湖へいくようになった。



初めて訪れてから、5年後。
次に訪れたのは新婚旅行の時だった。

目的地は熱海だったのだが
「山中湖を通るんだから、写真撮っていこうよ」と妻が言うので前回と同様に、富士山をバックに一枚撮った。
もちろん、この時も伸びた鉛筆が2本。


3回目は2人の子供を加えて。
たしか、上が小5、下が小1の時であったような気がする。
「上の子が中学校にあがると、家族旅行は難しくなるから行こうよ。」と妻が言うので4人で山中湖に行った。

その時も富士山をバックに一枚。
鉛筆が2本から4本に増えた。デコボコの鉛筆が並んでいた。


子供が成長し、そして成人してから、山中湖に行くことはなくなった。
しかし、コロナウイルスが収束してきた頃合いを見て
20年ぶりくらいに2人で山中湖へやってきた。

あたりはすっかり変わっていたが、山中湖の背面にそびえる富士だけ前と同じ。少しも変わっていなかった。

車から降りた妻に対して
「だいじょうぶか?」
と私が言った理由は、彼女がある病気を患っているからである。


妻の病

“脊髄小脳変性症”

名前の通り、脊髄と小脳が変性していく病気である。
ふらつきや呂律が回らないことを主訴として発症する神経難病で、約1/3が親から子に遺伝する。

妻が50代後半の頃、なんだか歩きにくい、転びやすくなった。という症状を訴え病院で検査したところ病気が発覚した。

脊髄小脳変性とは進行していく難病の一つで、有効な治療法がない。
そしていつか歩くことも難しくなる病気である。
私は自分がその病気にかかったわけではないのだが、
当時は妻のこの先の未来を想像し、ずいぶん落ち込んだ。

しかし、妻は
「お母さんもこの病気だったからね。」
とずいぶんとあっけらかんとしていたのをよく覚えている。

もしかすると、妻が小さい時に母親が発症し、その行く末を見て育ったことから「私もいつかこうなる」との覚悟は持っていたのかもしれない。

私は退職を機に、脊髄小脳変性症の患者会を手伝うことになった。
きっかけは妻がその患者会に入っていたことである。

その患者会で同じ病気の人たちと、当事者だからこそわかる病気の辛さを吐露したり、時にはハメを外したり。つらいことも楽しいことも一緒にわかちあう仲間がいる。という安心感は妻の心を強くしたのだと思う。
もちろん、それは他の患者さんも感じていたように思える。


妻が脊髄小脳変性症を発病し、約10年が経過した。

有効な治療薬も未だ開発されておらず、病気の進行をゆるやかにするために妻はリハビリに励んでいる。

正直、進行する病にかかっているという現実は変えることはできない。
心が折れそうになる方も多く見てきた。

新薬は患者にとって希望である。
すくないのぞみと書いて、希望。

いつできるかわからない。もしかしたら妻が生きている間はできないかもしれない。時折、そんな考えがよぎる。

しかし、その度に、
「一緒に頑張りましょう。新たらしい薬ができるまでの辛抱ですよ。」
と声をかけあえる患者会の存在、仲間の存在がいて、ここまで生きてこられたのではと思う。


その日のまえに


「いい、天気だね。そうだ、せっかく、だから、写真とろう。」
妻が私にゆっくり言った。

「すみません。写真撮ってもらっていいですか?」
私が通りすがりの人にお願いする。

富士山をバックにポーズは昔と変わらず直立不動
と思いきや、妻がふらっと私によりかかってきた。

その瞬間、私は妻の病気のことを痛感してしまった。

普段いっしょにいると病気の進行を意識しないが
妻は支えがなければふらつき、歩行能力も徐々に失っている。

妻がよりかかってきたことに私は
恥ずかしくもあり、同時に悲しくもなった。

私ももう歳である。山中湖まで車で遠出するのもむつかしい歳にさしかかっている。
妻の病気も進行している。いつかはその日がやってくるのだろう。

その日のまえに、ここに来れてよかった。

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