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感受性・好奇心がなぜ失われるのか?④

私はずっと前から疑問に思っていることがあります。

「人はなぜ失敗を恐れるのか?」


→失敗すると恥ずかしい。
→→失敗すると惨めになる。
→→→失敗すると立ち直れない。


子供の頃から「失敗しないように育てられた」経験はありませんか? 失敗は悪であり、成功が善である。誰がそう決めたのでしょう? いつ頃からか、できるだけ失敗しないように生きている自分がいませんか?

その気持ちが「新しいことにチャレンジする気持ち」を遠ざけていると私は思います。最近では「チャレンジする」という熱血的な言葉は死語のように感じます。「努力」「根性」なども同じで、最近では使うことを恥ずかしくためらってしまいます。しかし、自分の心の中では使うべきじゃないでしょうか。


大人はできて当たり前、失敗すると恥ずかしい


子供は失敗してもまだ可愛げがありますが、大人が失敗すると惨めになるのはなぜでしょう? おそらく「できて当たり前」という世間の目がそうさせていると思うのは私だけでしょうか?

横断歩道を渡ろうとした時、信号が点滅し始めたことで小走りになり、足がもつれて転ぶ高齢者が時々います。すぐ起き上がって、その場を立ち去ります。経験者に聞くと「恥ずかしい」と必ず言います。帰って見たら凄い擦り傷だったとか、ひどい話では骨折していたという人だってあります。救急車を呼ぶレベルの話なのに、恥ずかしさがそうさせてしまいます。


失敗が当たり前になると、生き方が変わる


1993年、私は個人事業で印刷の仕事を始めました。一番最初はまったく仕事がありませんから、飛び込み営業から始めました。昼はビジネス街、夜はネオン街を選り好みせず、片っ端からドアを開けて回りました。一日100軒のドアを開けても、一軒も仕事が取れないこともありました。100分のゼロの確率を毎日毎日続ける精神力を考えてみてください。そのうちようやく一軒、仕事がもらえたとしても、2000円の名刺ひとつだけだったりします。

テレホンアポインターの仕事もしたことがあります。1時間、次々と電話をかけまくっても、話すら聞いてもらえず、むしろ怒られることの方が多いです。苦痛を通り越して、屈辱を感じます。悪いことをしているわけではなく、素直な気持ちで電話営業しているだけです。今ではそれこそ心底嫌われる時代になりましたが、2000年頃はまだそうでもなかったんです。

飛び込み営業とテレホンアポインター、どちらも失敗の連続で、成功する確率は、100分の1以下です。大人になってから私はそうやっていっぱい失敗する経験をしました。さらに、会社を立ち上げて潰し、飲食店始めても潰し、失敗の数を上げたらきりがないくらい、失敗の連続で生きてきました。結婚も失敗しました(笑)


失敗を恐れるから、好奇心や感受性が失われる


失敗を恐れる生き方は、新しいことにチャレンジしない生き方になっていきます。ゆえにそれが好奇心や感受性も失ってくことになります。

世の中は矛盾だらけです。もし一つでも矛盾を感じることがあれば、その矛盾を少し自分なりに考えてみてはいかがでしょう? 何か突破口が見つかるかもしれません。

何の突破口かって?

好奇心や感受性を失わないことで、認知症予防になり健康寿命を延ばすことになる突破口です。

つづく・・・次回へもう少し書き続けます。





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