植木屋の価値について考える-2

価値とは何かを考えたいと思います。
また10年前のレポートから引用します。

商売とはいったいどういったものだろうか?「モノ」が欲しい人がいて、「モノ」を持っている人が売る。何千万円もするという「モノ」も、欲しい人がいなければそこには価値が存在しない。
落語に「はてなの茶碗」という話がある。

あらすじ
京都は清水の音羽の滝のほとり。大阪出身の油屋の男が茶屋で休憩していると、京では有名な茶道具屋の金兵衛、通称「茶金」が、茶屋の茶碗のひとつをこねくり回しながら、しきりに「はてな?」と首をかしげていた。
茶金が帰った後、あの茶金が注目するとはさぞかし値打ちのあるものに違いないと、この茶碗を茶店の主人からすったもんだの末二両で買った油屋。それを持ってさっそく茶金の店へ。番頭に「五百両、いや千両の値打ちがある!」と息巻くも、どう見てもただの茶碗、「うちでは取り扱えない」と埒が明かない。
無理やり茶金を呼び出して、事の次第を聞いてみると、ヒビも割れもないのに、どこからともなく水が漏れるので、「はてな」と首をかしげていただけであった。意気消沈し、自らのヤクザな身の上を茶金に語る油屋。しかしそこは通人の茶金。「二両で自分の名前を買ってもらったようなもの」と、その茶碗を油屋から(さらに一両付け加えた)三両で購入することにし、この金を持って親元に帰って孝行するように諭す。
この話が評判となり、関白・鷹司公によって「清水の 音羽の滝の 音してや 茶碗もひびに もりの下露」という歌が詠まれる。さらには時の帝によって「はてな」の箱書きが加わる。このように立派な肩書きが付いた茶碗の噂が鴻池家の耳に入り、とうとう千両で売れてしまった。茶金は油屋を呼び出し、千両の半分の五百両を渡す。大喜びの油屋。
後日、再び茶金の元を訪れ、「十万八千両の大儲け!」と叫ぶ油屋。茶金が問い質すと、
「今度は水瓶の漏るのを持って来ました」

この話は、値段の付き方を滑稽にした話である。本来の価格以上の値段というものはこういった、見栄によるものが多い。私たちは、この話のように見栄を売らなければならない。3章で説明したように本質的には必要のない植木屋が自分たちの価値を高めていくには価格以上の何かを売らなければならない。お客様が他人に自慢できる、素敵ですね、すご~いと言ってもらえる、そういったものを提供しなければならない。

そのためには何が必要か考えなければならない。

10年前の私のレポート「5章・植木屋の売るべき「モノ」」より

私は落語が好きでたまに聞きます。落語ファンは怖いので、すぐに鋭い目つきで「へー誰が好きなの?」と聞かれます。どうやらそこで色々判断されるみたいで、例えば新旧笑点メンバーの名前を出すと鼻で笑われる気がします。
私は落語のお話が好きです。そしてそれを演出し表現して全く別のお話してしまう噺家さん皆さんが素晴らしいと思っています。
なので誰々の文七元結が良いとか、駄目とか、あいつは下手だとかはラーメン屋の評価のような話で、地域性があったり、好みがものすごくあったり、結論を出すのにあんまり意味が無いことだと思います。だからこそ非常に面白いというのもわかりますが、ちょっと怖いです。

話がそれました。上記の「はてなの茶碗」は関西の呼び名で、関東では「茶金」という名前の話になります。桂米朝師匠が好きなので上方の名前で紹介しています。
物価上昇に対応するために最近付加価値をつけて売りましょう!という言葉をよく聞きます。レポートでは付加価値を見栄であり、商品自体に対価となる機能がなくても高値が付く事を言っています。

レポートでは見栄という表現ですが、実際にはストーリーに価値があったり、付加価値の付け方は様々です。次回は付加価値の付け方を考えてみたいと思います。