植木屋の価値について考える-1

10年前の私の植木屋の価値についての意見です。

造園業者、植木屋、庭師、様々な呼ばれ方をしているが、実際に私たちがしている仕事とはどういったものなのだろうか?建設業法において造園業は「整地、樹木の植栽、景石の据え付け等により庭園、公園、緑地等の苑地を築造する工事」と定義されている。私たちは何に対してお金をいただいているのだろうか?

私たちは「作業員」なのだろうか?「職人」なのだろうか?
 ひと前昔「植木屋は馬鹿ではできない」と言われていた。植木屋は多方面での知識が必要になるため、インターネットのない時代では、文献や実際に名所に行き勉強をしないと知識を得ることが難しかった。そのため「植木屋は馬鹿ではできない」と言われていたのではないだろうか。

そして植木屋は他の職人とは違う扱いを受けていた。その理由として、お客様の家に毎月、毎年出入りし、その家の事情をよく知り長く付き合っていく必要があったため一過性の職人と違い特別な扱いを受けていたと考えられる。更に、芸術性の高い仕事を担っていたことも要因の一つである。作業員と職人の違いは仕事に真摯であるかないかの違いだと考える。私たちは「職人」であるべきである。そしてそこにこそ人としての価値が生まれる。

私たちの仕事に技能は必要なのか?本当に必要な技能とは?
 私たちの仕事にはどういった技能が必要なのだろうか?剪定の技能、植栽の技能、石を設置する技能、造成整地する技能等様々な技能が考えられる。しかし実際はどうだろうか?公園や大型庭園工事をする際に植栽以外は外注が多くはないだろうか?縁石を据えられる造園技能者がどれほどいるだろうか?1tを超える景石を選択し設置できる技能者がどれほどいるだろうか?造成整地ができる技能者がどれほどいるだろうか?本来はすべて造園業者がやるべき仕事である。
植栽、剪定作業しかしないのに造園業者といえるのだろうか?造園業者は植木を扱うことにしか価値が存在しないのだろうか?私たちは造園業種に付属するものに関しては「プロフェッショナル」でなくてはならない。常に真摯に学び他業種との差が明確になれば、そこに仕事の価値が生まれる。

私たちは何の対価にお金をいただくのか。
私たちはどういったものに対してお金をもらうのだろうか?お客様は何を必要としていて何が欲しくてお金を払うのだろうか?公共工事の場合規格があり、図面がありそれぞれに準じて施工する。検査のために必要な書類を作成し契約に基づいて代金を得る。それだけでいいのだろうか?

私たちの職業の業種は何に分類されるだろうか?もちろん「造園業」だが、もう少し分解していくと、「サービス業」と言ってもいいだろう。造園業におけるサービスとはなんであろうか?値引きをすること、余計に仕事をすること、こういった事はプロフェッショナルがするサービスとしてはいかがなものだろうか?

私たちの仕事は、本質的には無くてもいい仕事である。庭や公園に木がなくても生活はできる。広場やスペースを作るのは、土木屋、外構屋でもできる。私たちはどういったサービスができるのだろうか?

10年前の私のレポート「4章・植木屋の価値」より

客観的に読み直すと、尖っている文章だなと感じます。「植木屋は馬鹿ではできない」のくだりがありますが、この言葉は天才バカボンでバカボンのパパの職業が植木屋であり、赤塚不二夫先生がフォローのためにいった言葉が広まったのではないかと今は思っています。

価値というのはとても曖昧で難しい概念だと思います。価値は市場が決めることであり、自分でどうこうするものではないのはわかっていますが、欲しいという人々の欲求がお金に結びつくのだろうなと思います。

次回は価値についてレポートに書いてあるので、それを転載したいと思います。