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佳人長命―祖母100歳のお祝い。

少し前の話になるが、一族で祖母の100歳のパーティをした。もっとも、音頭を取ったのは叔父であり、叔母であったわけで、祖母の半分の歳になっても相変わらず孫気質が抜けないのは容赦いただきたいところである。

およそひと月ほど前に声がかかり、それから叔父と叔母は、車椅子の移動に困らず、20名近い家族が一同に会して食事ができる場所を探してくれたらしい。我々孫世代に課せられたのは、それぞれの家族がスライドを使って近況報告のプレゼンテーションをすることであった。

もともと、すでに家庭のあるそれぞれを厳格に縛り付けるイベントではないし、肩肘張らずに無理のない中でお祝いしたいという思いが共有されていたため、ギリギリ開始時間に間に合わないもの、海外にいて参加できない人、あるいはすでに予定が入っていて出席できない家族もあったわけだが、弟の家族が参加できないこと、病床にあって母が参加できないことから、自分の家族も含めて合計三本のスライドを作成することになった。

私は、祖父母の家の整理も手伝った手前、古い写真などをデジタルスキャンしていたりもしたので、おそらく家族の中でも一番資料を持っていたであろうから、スライドではなくムービーにしようとすぐに思い立った。そもそもムービー作成は自分の日々の仕事の範疇であるし、実際、両親、弟、私、と三本分のムービーのシナリオは、ほぼ秒で出来上がっていたし、それぞれのトーンや色分け、BGMまでイメージできてしまったので、とにかく時間との闘いで仕上げることが第一目標となった。

しかし、である。いざ作成を始めてみると、膨大な写真や動画を選定するのに困ってしまった。自分のムービーで使おうと思っても、弟が写っている。逆もそうだ。あるいは、そこにある写真はまた従兄弟たちの思い出でもあるのだ。
ああ、そうか。この祖母、そして少し前に旅立った祖父を中心に、みんなが時間を交差させてきたのだから、それはそうだよな、と得心が行くのである。そういう祖母に、何がお返しできるのか。むしろ、この小さな一族がともにした時間、それを皆で同じ方を向いて見返せる、そんな三本にしたい。そう、もうひとつ舵切りをしたのである。

私のムービーでは、家族で別々にメッセージをレコーディングして重ねてみたり、ひとりでは荷が重いので、一本は娘に任せて自分はディレクションにまわるなど、それなりに工面してできあがった三本は、一週間を余らせて完成したはずなのに、前日まで音や映像の微調整から離れることができなかった。それだけ、祖母に喜んでほしい。二度とないであろうこの時間に祖母にお礼をしたい、という気持ちを抜くことができなかったのだと思う。

当日会場に入って、弟のような従兄弟(なにしろ、この男ばかりの孫たちの中で、最年長は私である)に第一声「なんだか、不思議だよね。自分たちが夏ごとに集まって旅行に行っていた年齢に、自分たちの子どもたちがなっているなんてね」と言われ、ああ、確かにそうだ、あの頃の両親や叔父、叔母の年齢に自分たちがなっているのだと一瞬我に返った。

当時叔父一家は、20年以上アメリカで暮らしていて、数年に一度だけ、従兄弟たちも一時帰国が許されていた。それで祖父が思いついて、皆が集まる夏には伊豆に宿を取って、皆で数日を過ごすのが恒例になっていた。あの頃、私達は中学生や小学生であり、やがて大学生になり、それぞれが結婚を控える身となっていった。前にもどこかで書いたことと思うが、この祖父母たちが健在であるがゆえに、いつまで経っても一族の中でのそれぞれの立ち位置が変わらないことで、時間がずっと止まり続けているような錯覚、幻から抜け出すことができないのである。言われてみれば、写真の中の私は歳を取ったし、あの頃いなかった家族たちが並んでピースサインをしている。祖母を祝う会は、幻想の中に現実を見つめる時間でもあったのである。

私の話ばかりで心苦しいが、両親からの贈り物として作成したムービーは、祖母が生まれ育ち、被爆して家族を失い、今の家族を祖父とともに0から再生した愛すべき長崎の景色、祖父母が、幼い母や叔母、叔父たちを連れて行ったピクニックの景色、銀嶺、つる茶ん、吉宗といったレストランや思い出の食卓、祖父が愛し、長崎の家と墓を整理する最後の旅で、私と酒を酌み交わした料亭・花月、前社長が叔父とはクラスメイトで、PTAでは祖母とお母様がご一緒したという福砂屋さんなど、長崎といえば景色と料理と祭り、という具合で、そんなこんなを古い写真で振り返った。祖母が愛した“剣聖”であり実父の防具姿(写真の横に、防具一式8万円、と祖母の字で書いてあったのは、質素倹約を旨とした祖母らしいキャプションだ)を境に、私の父と母の出会い、結婚、そして数々の思い出を連ねていく。祖父の顔は少し長いと個人的には思っていたが、写真の向こうのセピア色の祖父はなかなかの男前であった。

祖母はいつも、車椅子を押してもらうことを申し訳ないと言った。そんなことを思い出して、後半には、祖母を女王陛下に見立てて英国王室のパレードにでも流れそうな仰々しいBGMをバックに、「男性はみな、貴女の車を押すのが名誉です。」とのコピーを挿し込んで、一族の“錚々たる”男性陣老いも若きも、車椅子の祖母と一緒に笑顔で写っている写真をザーッと並べてみた。そんなところも、私と祖母の遊び心が互いにつながっているからこそできる演出である。

とにかく湿っぽくしない。そう一同決めていたので、最後は涙もろい父がこみあげる涙をこらえにこらえて、出席できなかった長女である母からのメッセージを代読してムービーは幕を閉じた。

私のムービー、弟のムービーの詳細はここでは省略しよう。従兄弟たちにもそれぞれの「その後」があり、家族皆で一丸となって、よい家庭を育んでいる様子がわかり嬉しかった。この精神こそ、祖父母が我々に残してくれた最大の教えであり、財産なのだから。
サプライズで、やはりアメリカにそのまま住んでいる“末っ子”従兄弟夫婦が、リアルタイムのLINE電話で会場に馳せ参じた。

四世代が一同に会し、賑やかに会はフィナーレを迎えた。祖父は生前、「ひ孫十人見るまでは死なない」と口にしていたが、ちょうど十人目のひ孫が誕生して逝った。そのひ孫たちが、祖母の100歳を祝っている。きっとむこうで喜んでいるに違いない。分を弁えた人だったから、あまり強くはないけれど、大好きな日本酒と洋酒でも一杯ずつ飲って空から見下ろしていたのではないか。

「良妻賢母、佳人長命、美人達筆あり。」

最後に配られた色紙には、私から祖母へ、先にも書いたように、いつもの遊び心で分かりあえるこんなメッセージを添えた。

今日、ここから、新しい100年がはじまる―。
おばあちゃん、ありがとう。そしておめでとうございます。(了)


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