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こういうの出版しろよなマジで。と思う

 子どもたちは自他の痛みや社会の不条理をどのように処理したのか。子ども同士で、支援なき世界を生きのびるための言葉を見つけた物語へのリンクを貼りたい。こういう時、「スキ」はぜひリンク先の記事にお願いします。  

なんでスキって一回しかできないの?

 気持ち的には読み返すたびに「スキ」したい。
 絶望に押しつぶされる子どもがいると知っている人だ。
 でも救いがあれば子どもは強く立って行けると経験から知る人だ。
 そんな人が、子どもたちのそばにいようと思ったこと。
 それはご本人にとっては当たり前のことだったんだろう。
 でも、ありがたいじゃないか。


電話相談、いいスね。

  どうやらこれは大人向け、なのかな。子どもも相談できるように、見知らぬ大人が相談料を肩代わりできるシステムにならないかなあ。例えば見知らぬ大人が払った1,000円で、どこかの子が10分相談できるようなね。
 そんな風に見知らぬ子どもが確かな大人に相談する機会と時間を、買えたらいいのに。

 「誰やねんな。」か。
 「誰か」でありたい。

そう思った。強く強く強く、そう思った。

 私はいつも自分の話を始めてしまう。蛇足かどうかも気にせずに。今回もそうする。ここからそうなる。

 私が14歳の時、父が死んだ。私が4歳の時に病に倒れ、家族以外の誰もが父を生者ではなく死者であるかのように考えそのように扱った10年間を経て、そんな長い死にも結末があることが不思議にさえ思えるような意外さで、父が目の前から消えてしまった。その葬儀当日、叔父が現れた。

 その、私には叔父である父の弟は、父が倒れるとすぐ先祖代々の家を自分の名義にしていた。曾祖父母は既に他界していたという状況下で、それまで長く名義変更されず祖父名義のままだった家をどうして権利者のひとりであった父からの譲渡という形をとらず叔父の名義にできたのかは今も謎のままだが、そういう男だった。その男は単独相続した先祖代々の土地を、病み果て郷里を恋しがった父に(実務上は母に)売りつけていた。しかしそれまでの家を売却し引っ越すしかなくなった段階になって、土地を半分に切ると言い始めた。ここは弁護士が嘲るポイントだが、身内のこと、口約束で契約書は交わしていなかった。「全部なんて言ってない、そもそも青写真しかない話」と叔父夫婦は母をせせら笑った。そんな思いをして生家に戻った父が、半身不随で再起不能と自身が見られていた十年間も、実弟が妻にしたことも理解しないまま死んだ。

 叔父が務めていた中学はたぶん今も叔父がデザインした校章を使ってる。卒業生にとっては思い出なんだろうな。どうでもいいけど気持ち悪りいな。

 父の、葬儀の日。母に、生活のため父と子どもたちを「母の実家に」預けろと説教する、自分は何の援助もせず母を責め続けるだけの叔父だったが、近隣住民の前でその時ばかりは立場を意識したのか、まるで喪主であるかのように頼まれてもいない挨拶を始め、誰に何をはばかるのか、葬儀が簡素であることを参列者に繰り返し詫び、それが終わると誰より早く帰って行った。事実なので隠さず書くが、私はそれから5年後、今度は私の前で母と姉について侮辱を始めたその叔父の頭をサッカーボールのように蹴り上げて、奥歯を叩き折ったことがある――私にはそういう血が流れている、という話だ――病気の家族から財産を奪うような、悪徳。そして躊躇なく人の頭を蹴り上げるような、悪徳。あの日小さな身体で私に取り縋り止めた母の激しい動悸が、しがみついた腕の力が、今も私の左腕に残っている。しかしすまなさを感じたのはその母に対してだけで、口から血を溢れさせた男には何の哀れみも感じなかった――叔父は土地を半分に切っただけではなく、母に売ると決めた後に、その土地を担保に金を借りていた。それを長く伏せていたのだが、母が姉の大学進学で入学金を借り入れようとして銀行から断られた時に露見して、その日私が説明を求めると「実害はなかっただろう!」と逆上し――母と姉を愚弄し始めたのだった。私は、「暴力はダメ!」と言う人々に、今も一定の心理的距離を感じる。当時19歳だった私は狭心症だった母が息を荒げて必死に取り縋って私を止めなければ、あの男を蹴り殺していた。本気だった。「止めるものは他になかった」という実感と理解が現在もある。「暴力はダメえ」と気分よく言って済ます人々は、4歳の時から両親を侮辱されながら生きて来た私に、暴力について何を教えるのだろうか。どんな大人が、暴力に代わる道を示し得るのだろうか。そんな大人がいたなら、ぜひ私の前に現れて欲しかった。でもお前らバブルで浮かれてたじゃん。バカみてえなトサカ立てて踊って、働けば働くほど金もらえるって、なんで遊ばないのスノボ楽しいよって言ってたじゃん? まあそこは別にいいけど、でもおれの家族が死にかけてた時にさ、うちの暮らし見て笑ってたじゃん。あの家には車もないとか、息子はグレるだろうとか、父ちゃんあんなだから母ちゃん長いこと男に抱かれてないだろうとかさ。おれ高校時代そういうジジイの家に毎朝新聞配達してたよ。実際に母をレイプしようとしたその民生委員に、全部分かった上で、毎朝新聞を手渡ししてた。絶対に挨拶は受けなかったけどな。でなに、説教くれんの? 拝聴するから語ってみなよ。――私には、そういう岩のような反発がある。いざとなれば噴き出すマグマを抱えている。いつ死んでもよかったしいつ殺してもよかった。生きる道だけがなかった。……で、「暴力」が何だっていう話でしたっけ。

 だが、人が「君には救いを示せる大人が必要だった」と言うなら、話として分かるし、そうだと頷く。そんな大人にいて欲しかったし、できれば自分もそんな、必要な大人になりたかった――そういう私が思うのだ。「あの頃、セミ採り名人さんみたいな大人がいたら」と。子どもには救いがなきゃならない。誰かにとっての友達になれることも、カッコいい大人になれることも分からなきゃいけない。だからこんなSNSに常駐してる出版社に言いたいんですよね。ただ見てるんじゃないと。いつか完成された逸材が、充分に購買層を見込める状態で現れるという偶然を待つんじゃなくてさ、一緒に育ちなよと。手を取り合って希望を作りなよと。そうじゃなきゃ出版に夢なんかなくなるんだから。書かれるべき本があるだろう。読まれるべき本があるだろう。それを売らなきゃだろう。

見よう見まねで「本物」になろうとあがく父親でもある

 セミ採り名人さんには父親という役割もある。娘さんのためだけの顔。自分が生育環境的に(よその家では一般的な)イベント事を知らずにきたから、娘さんにちゃんとしたイベントを経験させてやれているのかと不安になりつつ、その一方で、人として必要な誇り(持たざる者の生き方にみられる、輝く気づきと自信)を託してやりたいと願っている――ここ、スッキリ言えないな。やっぱりご本人じゃなきゃダメなんだ。この愛しい父親が、娘さんに対して何を受け取りながら大人になって欲しいと願うのか、いつか私はちゃんと紙の本で読みたい。noteって、以前の記事に遡りにくいしね。

 あっちが「スキ」で埋まればいいなあ。お子さんはそれを見るべきだよ。そう思う日曜日。ああやっと書けた。よし寝……どうしようか。髪でも切るか。久々にパンチ当てたいとか思って伸ばしてたけど、いいや。




 




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