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元巨人軍の外野手、柳田選手のこと

写真は野球のイメージです。
文章と直接の関係はありません。

1965年生まれの私にとってスポーツと言えば野球だった。昭和40年代から50年代にかけて。テレビのゴールデンタイムでは当然のように巨人戦の中継があった。我々世代は巨人のV9はもう終わりかけ。長嶋新監督のもとで最下位からのスタートだった。

小学高学年のある年。お正月に地元のデパート(記憶が定かではないが伊勢甚だったかな)で、ジャイアンツの選手三人によるサイン会があった。デパートの初売りに合わせて1月3日・4日・5日とかの日程だったと思う。一日一人で小林・定岡・柳田の順番だった。折込チラシの記憶が脳の奥にある。小林繁はサイドスローの中心投手で女性に大人気。定岡正二はアイドル的存在だが入団数年でまだ芽が出ない頃。柳田真宏(当時は柳田俊郎)は「いぶし銀」の外野手である。

とにかく柳田選手は「職人」といった風情で渋かった。毒蝮三太夫に顔が似ていることから「マムシ」というあだ名で知られる。しかし画像検索をしてみると分かるが、毒蝮さんよりもっともっと怖い。鋭い眼光で甘い球を一撃で仕留める。まさに毒蛇のマムシだった。私の父親はいつも「馬車引きのような顔だな」と言っていた。若干差別的な表現だが、父が子どもの頃に見た馬車引きのイメージだろう。

1977年か1978年のはずだが、ぼんやりとした記憶では小6の終わりはもう野球より天文に夢中だったから、おそらく1977年だろう。

私は小学5年生の冬休み。スーパーカーとヨーヨーが大ブーム。クラスの女子が「山口さんちのツトム君」の替え歌を私の名前で歌っていた。小林と定岡、特に定岡の日は大混雑が予想された。いずれにしろチャラチャラした感じの二人はあまり好きではなく、子供会の野球でも外野を守っていた私は柳田の回を選んだ。

茨城県の伊勢甚日立店だったと思う。上の方の階に催事場があり、整理券をもらって階段を延々と並ばされた。やっと会場に入ると遠くに柳田の姿が見えた。胸が高鳴る。心の中で何度も練習した。「今年も頑張ってください!」って言おう。あわよくば握手もしてもらおう!

私の番になった。じっと柳田の顔を見上げる。柳田は機械的に色紙にマジックでサインを書いている。「がっ、頑張ってください!」と言うと、サインを書きながら低い声で「はい」とだけ答えた。一度も目を合わせることもなく、握手など到底無理だった。

子供らしく大層がっかりした私だったが、「いや!それが小林や定岡とは違う柳田の魅力なのだ」と気を取り直して帰路に着いたのだった。その年の柳田の活躍はご存じの通り。4番の王は敬遠されることも多く、柳田は「史上最強の5番打者」と言われたのだ。それまでのライトは右打ちの末次と左打ちの柳田の併用だった。どちらも渋い選手だったな。

当時のプロ野球選手は今とは全く違う。ホームランを撃った後にパフォーマンスをしたり、ヒーローインタビューで面白いことを言ったりしない。広島や近鉄の選手なんてパンチパーマだらけで、新幹線での移動の時など、どこの暴力団かというような雰囲気だったのだ。定岡あたりから少しずつ変わってきて、私と同年代の「新人類」と言われた世代からファッションも変化し、現在日本ハム監督いやビッグボスの新庄の登場でそれは決定的となる。

話を柳田に戻そう。1977年1月から21年が経った1998年8月。11歳の少年だった私は33歳になっていた。結婚して杉並区のとある街のマンションに新居を構える。ある日のこと。散歩をしていて徒歩10分ほどの地下鉄の駅近くに「ブイナイン倶楽部」という古いバーを見つけた。

ネットで検索すると、それは引退した柳田選手の経営するバーだと分かった。行ってみたかったが恐ろしく入りにくい雰囲気で躊躇していた。

その年の年末だったと思う。1998年頃はまだ景気も良く忘年会がたくさんあった。ある日。帰りに柳田の店に寄ってみようと思い立った。少し遠回りの地下鉄の駅で降りる。焦げ茶色の古い扉を押して入っていった。

薄暗い店内に客は誰もいなかった。「いらっしゃい」と女性が出てくる。真ん中の席に案内されてポツンと座った。勝手に柳田がいると思っていたが、そんなはずもなかった。女性は向かいの席に座ってビールをついでくれる。1977年のサイン会の話をした。目も合わせてくれなかったこと。握手してくれと言い出せなかったこと。

女性は「あー。お父さん(パパ、だったかな)は、そういうの苦手なのよ。ほんと人見知りでね」と言った。私は当時のお父さん(笑)が、少年たちにとって憧れだったこと。凄い選手だったことを話した。暗くてシーンとした店内でビールを1本とナッツかなんかを食べて店を出た。お勘定は良心的だった。

その後は店には行くことはなかったが、その界隈で柳田を数回見かけた。いつも犬の散歩をしていた。声を掛けたかったが、少年時代のスターは引退後もオーラがあって委縮してしまった。しかし二度目か三度目の時に思い切って話しかけてみた。


「柳田さんですよね!」


「はい」


「僕、最近近くに引っ越してきて、一度店にも行ったんです」


「あ、そう」


「子供の時に茨城でサイン会があって、柳田さんのサインもらいました」


「あー、そう」


「あの・・・写真撮らせてください」


「いや俺はいいからさ、この犬を撮ってよ。甲斐犬っていう珍しい犬種なんだ」


30代の私はすっかり11歳に戻って緊張していた。またしても柳田さんは目も合わせてくれず、握手など夢のまた夢だった。前回同様に少しがっかりしたが、それが「柳田選手」なのである。

ここまで書き終えてから写真を探した。確かコニカヘキサーにモノクロフィルムのはずだが見当たらない。記憶違いでカラーネガフィルムだったのかもしない。当時のカラーネガは整理が悪くて探せない。私はしゃがんで35mmレンズを縦位置に構え、犬を下の方に入れつつカメラを上に振って上辺ギリギリに柳田さんの顔を入れているはずだ。「俺は撮るなよ」と怒られるんじゃないかとビクビクしながら。

おそらく柳田さんはネットに出されたくないのだろう。そう思うとあきらめがついた。許可なく顔まで写し込んだのだし、むしろ見つからなくて良かった。少年時代に手の届かなかったスターはスターのままで良いのだ。



電子書籍

「カメラと写真」

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