「和賀英良」獄中からの手紙(30) 田所大臣の暗躍
その日の夜、田所重喜は珍しく自宅の書斎に居た。
今日も国会での審議や党の役員会、新聞記者との懇談があったが、夜の九時過ぎに自宅に戻り秘書も帰宅し、久しぶりにゆったりとした一人の時間を過ごしていた。
田所は自分の秘書がいつも怯えていることに少し腹を立てていた。
今日も帰り際に「失礼いたします」と緊張の面持ちで歩き出そうとしたところ、段差がないのにもかかわらず、つまづいて転びそうになっていた。
なぜそれほどまでに私に対して萎縮するのか。
真面目なのは良いが、無意味に自分を怖がって、ちょっと声をかけただけで、眠っている猫を撫でたときのように「ビクッ」とする様子が無性に腹立たしかった。
学生時代の部活動で先輩後輩の関係を無条件に受け入れた人は、上の人間にはへつらい下には威張る。そんなヒエラルキーが身についてしまう。人間関係に絶対はないのだが、その上下垂直な関係から、どうやって斜め上の角度を見つけるか。ここが分からないと上には行けない。
それには幼少のころに自然に持っていた無敵な感性を取り戻すことが必要だろう。もちろん「子供っぽい」のは困るが「子供みたい」な純粋さが失われているのだ。
田所は今の秘書はもう潮時だろうと漠然と考えていた。
いやいや、また人事のことを考えてしまった。
さて、イライラを鎮めるにはどうするか……
そういったときに必ずやること、それは照明を落とした書斎で、シングルモルトのスコッチウイスキー「マッカラン」を舐めるように飲むことだった。その香り立つような琥珀色の液体を眺めながら過ごすひと時を、田所はとても大切にしていた。
ウイスキーはケルト民族のゲール語で「生命の水」という意味である「ウシケベーハー」(Usquebaugh)という言葉が語源で、これが徐々に短縮され今日の「ウイスキー」となった、とあるパーティーで駐日大使が言っていた。
その話を聞いてから。田所はこのスコッチを愛でることは「生命力回復の儀式」だと考えるようになっていた。
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すこし酔いが回って、その体が書斎の椅子の背にもたれかかるようになった時に、不意に目の前の黒電話が鳴った。
もう夜の十一時をとうに過ぎている。いつもなら無視する時間だが、その日の電話の鳴り方はなにか切羽詰まった、急を要するように何度も鳴り続けた。受話器をとると相手は和賀英良であった。
「田所先生、和賀です。夜分遅くに申し訳ございません」
「英良君か、どうした、珍しいじゃないか」
すこしの酔いはあるが、さきほどまでの眠気をまとったまどろみはない。
いま目の前にある電話は大臣専用のホットラインであり、限られた人間しか番号を知らない。盗聴されることを避けるため、回線のチェックはランダムにかつ頻繁に行われている。
「先生、少し困っております、実は……関西から突然、好まざる来客がありまして…」
和賀は三木という元警察官が金を返せと迫っていることを田所に伝えた。もちろん田所には自分の元の名前が「本浦秀夫」であること、病気の父親と放浪した過去があることは伝えていなかった。
「英良君、先ほど藝大の烏丸教授から電話があって、あらかたの状況は聞いている」
「百万円程度の金を用立てるのは簡単なことだが、その三木という輩は君の過去の暗い部分を知っていて脅しをかけてきている、ということだね」
田所はすこし探るように言った。
「実は娘の佐知子から耳に入っているのだが、君には複雑な過去があるのではないかね、佐知子はそんな直感があるようだ。それで私も各省庁を通じて内密に調査させたところが、これはあまり言いにくいことなのだが……」
田所はスコッチの酔いを振り切るように言った。
「君の本名は和賀英良ではないね、政府の関係者に頼んで調べた結果なんだが、先ほどの電話の感じだと烏丸君も知っているようだったが」
和賀は受話器を持ったまま押し黙っていた。
「まあいい、とにかく君は今の地位があるんだからそれを守りたい、そうだろう?佐知子も君の才能に惚れているんだから……過去は過去だ。それはそれでいい」
「でも君の過去が暴かれて、週刊誌に書かれてしまうと、君と佐知子の将来は難しくなる、そして私も無関係ではいられないね、さてどうする?」
ほとんど酔いがさめた田所は続けて言った。
「これはもう個人の問題ではなくて、国の文化政策にも関係するわけだが、そういった才能の発展に障害があってはいけない。だから私が言うとおりにしてくれたまえ。いいね、英良君」
「その恐喝している三木某という輩のこともすぐに調べさせるから」
和賀は受話器を握りしめながら無言でうなずいた。
自分はもう引き下がれない。
過去の清算とは三木がこの世から居なくなること。
佐知子と田所の意向に従えば自分の地位も保てるはずだ。
政略結婚ともいうべきものだろうか。
でも烏丸先生との絆は絶対に切れない。
三木が何かを喋ればすべてが終わる。
それだけは避けなければ……
和賀は眠れぬ夜となる予感を抱えたまま冷たいベッドに向かった。
第31話:https://note.com/ryohei_imanishi/n/n5b65fbfbb880
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