自分の中の「いい」と向き合い続ける
人間時間が経てば変わっていくものがある。
考え方とか、出会う人とか、習慣とか。
その一方で変わらないものもある。
価値観とか、嫌いなものとか、尊敬している人とか。
変わっていくものがあれば変わらないものがあって、
変えなきゃいけないものがあれば変えちゃいけないものもある。
それでいうと、自分の中で中学高校くらいからずーっと変わらない価値観がある。それが、
自分が「いい」と思うものをどんどん発信していく
ということ。
高校時代とかは部活の関係もありSNSはLINE以外禁止だったから、発信とかは全然していなかったんだけど、勉強法とか部活内でのプレーや発言とかでは自分の思う「いい」を貫いていたし、大学入って発信を始めてからは言わずもがなだ。
就活をしている時に面接で言っていたことの1つも、「いいものを広めていきたい」だった。それは今も変わらない。
最近Xでこんな投稿をした。
今の自分は「いい」の基準に揺さぶられている気がする。上手く言葉に出来ないけど、ここの線引きの難しさを痛感している気がする。
近い存在であればあるほど、否定をすることは自分自身を否定することにもなるからな、と思う気持ちや「実際問題いいものだしな」と思う気持ち、一般的にはこれが普通なのか、と俯瞰に立とうする気持ちなど様々。
だけど最近気づいたこととして、上記ポストじゃないけど、自分の中の「いい」の基準をアップデートさせるためにはやっぱり俯瞰が必要で。第三者的な視点が必要で。主観が入ると問題がややこしくなるなと。
「いい」の基準が不明瞭になることは、自分自身の正義が崩れることにもなる。ここの天秤的な感覚は常に持ち合わせたいと思っていて。自分が自分を認められる存在であるためにも、自分の中の正義って崩しちゃいけない。そのためにも、自分の中の「いい」はしっかりと基準を設けなきゃいけない。
そんなこんな考えているうちに、年始にポストした内容がすごく考えさせられるものがだった。
一体自分は「今」とどれだけ向き合えているのだろう。
望んでいる力の注ぎ方なのか、望んでいる時間の使い方なのか、望んでいるような人たちと会えているのか、望んでいるような言葉に触れているのか。
すべてが望み通りになることが理想ではない。
予想外から得られる学びもある。だけど予想外の学びを受け止められるのは「今」と向き合えている余裕があるからで、その余裕がないと予想外は邪魔者に感じてしまう。
もっともっと「今」の過ごし方に目を向けたい。
その中で「いい」とも向き合っていきたい。
そうやって向き合っていく中でつくられた「いいもの」を、望み通りいろんな人に届けていきたい。
それが自分の正義。
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