見出し画像

互いが互いに「怪物」だった

巷では宮崎駿監督作品である新作ジブリ映画「君たちはどう生きるか」が賑わっている。

そんな流行を横目に、ずっと気になっていたけど見に行けてなかった「怪物」を見に行った。すごい今更感ではあるが。
(以下は多少の作品の内容も含みます)

「怪物」というタイトルと、「考えさせられる系」という事前情報のみで見に行ったこの映画。月並みな表現にはなってしまうが、ものすごく考えさせられた。

見に行った直後の想いをそのまま書きたいのであまり整理はされていないがお許しを。


ということで話の展開を書こうとしたのだが、書いているうちに「ネタばれしかしていない」ことに気づき、今書き直している。

簡潔に見て感じたことをまとめるとすると、「正義のすれ違い」「言葉の呪い」、そして「みんな怪物」ということ。


正義のすれ違い

映画は話の展開に従い、視点が移り変わっていく。

最初は悪い人たちだと思っていた”あの人”が、その人の目線から話が展開されることで初めて、「実はその人なりの正義を持って動いていたということ」に気づく。

子どもを守りたい親、生徒を守りたい先生、学校を守りたい教師たち、友達を守りたいけどどうすればいいかわからない子ども。

全部見ていえることとしては、「みんな間違ってないけど、みんな間違ってる」ということ。ちょっと矛盾しているけど自分にとってはこれが一番しっくりくる。

各々が自分の貫きたい正義がある。そしてその正義は間違っていない。
ただその正義を貫きたいがあまり、コミュニケーションを間違う。結果相手との間にちょっとずつズレが生じる。

各々が見ている景色は大きくとらえれば一緒の景色。
だけど1人ずつクローズアップしてみるとちょっとずつ違う。
自分に見えている景色が、あの人には見えていない。
あの人に見えている景色が、自分には見えていない。
でもみんな自分が「正義」だと思っていて前しか見えなくなり、目の前で起こっている事実は一緒だからコミュニケーションを怠る。

結果、正義のすれ違いが生じる。

呪縛のように付きまとう言葉

この作品、「言葉」も結構なキーを握っているような感じがした。

「普通の家庭みたいに」
「組体操の下も務まらないと男らしくないぞ」
「豚の脳なんだよ」

これらはあくまで一部にすぎないが、本人たちはきっと何の悪げもなく、むしろ当たり前のように言った言葉たち。でもそれが子どもたちの脳には反芻されていたんじゃないかと思う。

おそらく言葉の深い意味は知らない。だけど大人以上にまっすぐ受け取る。自分たちよりもいろんなことを知っている大人が言うその言葉に、「自分はそうなんだ」という呪縛を感じたのかもしれない。

それぞれがそれぞれに「怪物」を持っている

「怪物」というタイトルの意味、最後まで考えさせられる展開となった。

最初、「あの人が怪物だな」と思っていたら、視点が変わると「あれ?あの人も怪物か?」となり、さらに視点が変わると「あれ?あの人も怪物か?」となる。

正義のすれ違いゆえ、見えている景色の違いゆえだということがわかる。

きっと登場人物たちも同じように思っていて。
互いが互いのことを「怪物」だと思っている。
それに振り回されている、見ている私も「怪物」なのかもしれない。

みんながみんな「怪物」の側面を持っているというわけ。


感じた対話の重要性

ちゃんと話せばわかることを、
それぞれの正義を貫き通そうがするゆえに対話を怠る。

結果互いを疑う。取り繕う。
それによって一層溝が深まる。

見えている景色が違うゆえに生まれる認識のズレ。

それを埋め合わせてくれるのは「対話」しかないんだな、と痛感する。



自分の心の中にもきっと「怪物」はいる。
それに気づけるかどうか、自覚できるかどうか。

ここが大事なのかも、と思った。

その「怪物」性を自覚した上で、
コミュニケーションで補っていく。


学びの多い映画でした。

この記事が参加している募集

映画感想文

今後の記事の質向上のための資金として使わせていただきます!