基準をどこに置くか
インプットをするための時間をつくるのに飢えているこの頃に、
noteだったりXだったりは自分で投稿をしながらインプットもできるという、一石二鳥のツールになっている。
そんなXにて考えさせられる言葉を見つけた。それが、
大人は「話さないとわからないよ」と言うことに対し、子供は「話せないの、わからないの?」と感じる。すごく興味深いな、と思ったし、確かに実際そうだろうな、と思った。
これって大人-子供間の関係性だけじゃない気がする。
例えば職場の中での上司-部下の関係だったり、今私が働いているような支援員-サービスのご利用者様の関係だったり、場合によっては恋人・家族の間柄でもありうることだ。
ここの関係性で生まれるすれ違いの要因っていくつかあると思っていて。
1つは「圧力」によるすれ違い。
「本当はいいたいことがあるのに、言ったらなんて思われるか/どんな反応がかえってくるか不安で言えない」パターン。
これに関しては言及の余地がないくらいあってはならない。圧力によって生まれた関係性で対等な関係は築けないし、いいモノは生まれていかない。いっそ圧力で支配をするのなら、そもそも有無を言わさないスタンスでいた方が潔い。だとしてもそんな関係望まないが。
そしてもう1つが「対等を築きたいのに基準が違う」がゆえに起こるすれ違い。案外こっちは質が悪い。でも改善もしやすい。
1つ目のものと違ってこちらの方は、意見を聴くつもりはあるということ。でも、こういうときに限って、
というスタンスになっている。それってもう完全に「自分」視点の感想になっている。
でもそもそも前提として、何かわからないことを聴くときの関係性って、
「知っている自分」と「知らない相手」
だ。
ただこういうときの質問って難しくて。質問できるということは、わからないことが分かっている状態である。つまり全体の構図は見えていて、その中の●●の部分がわからない、みたいなこと。
だけど大抵の人の場合、最初の最初ってわからないことすらわからない状態なんじゃないだろうか。実際私もそんな経験はたくさんしてきた。何を聴けばいいかわからない状態で、
って実は超難解だったりする。
ある程度「見える」状態まで誘導してあげるのが「知っている」側の役割なんじゃないかな、と。そのうえで、”それでも相手はわからないことがある”という前提に立つということと、”相手は何がわからないんだろう”ということを探していくことが大事なんだと思う。
と同時に、相手の「上手く話せない」を言語化してあげるのも「知っている」側の役割だと思っている。
上手く話せない人がダメなんじゃなくて、その想いをひも解いてあげられない側ももっとできることがある。
基準をどこに置くか。
その視点は常に持ち続けたい。
この記事が参加している募集
今後の記事の質向上のための資金として使わせていただきます!