「哲学チック」たる所以
僕のnoteの傾向は「哲学チック」らしい。
あえて今回は『僕』で行く。
そんなことを意識したことはこれまで一度もなかった。
それに大学で哲学を学んでいたわけでもないし、哲学に造詣があるわけでもない。哲学に興味を持ったこともない。
というかそもそも「哲学ってなんだろう?」。
あ、もしかしてこの思考法が「哲学チック」と言われる所以か。
「〇〇とは?」とか「〇〇について思うこと」とか、言葉や単語の第一フェーズで満足せず、もう1個先の世界が知りたくなるこの感じか。
とのこと。、、、いや、難しい(笑)自分としてはそこまで深いこと考えことないし、気になるから「これってどういうことだろう?」となるだけだし。
もっと言えばこうやって「これってどういうことだろう?」といろんなことが気になり始めたのはつい最近になってからだったりする。
それまでの僕ってあんまり周りのことに興味なくて。
興味がないというと少し語弊があるかもしれない。
興味がないわけじゃなくて、
自分の中で折り合いというか線引きをして、それ以上深く入り込まないようにしていた気がする。
それって環境的な側面とかいろんな要因があったんだけど、気づけば「線引きをする癖」がついていた。入り込みすぎるほど傷つくというかなんというか。
そうやって、知ることを避けてきたんだけど避けられない場面がやってきた。それが就活。自己分析し始めたときに、
となった。
やばいやばい、ということで自分のことを知り始めるためにnoteを始めたんだけど、それはもう完全に「パンドラの箱」を開けてしまったのと同義だった。
1個自分のことがわかっていくと、今まで溜めていたものが解放されたかのように、
となっていき、止まらなくなった。
自分のことがわかっていくと、
と周りのことも気になっていった。
結果、いろんなものやいろんな人の深い部分まで知りたくなり、「哲学チック」な文章表現になってしまったというわけ。
だから「哲学」したくてこういう表現になっているわけではない。もしこれで哲学してると言ったら、本当に哲学という学問に向き合っている方に怒られる。
か、言ってしまえば広義の意味で全員が全員「哲学者」なのかもしれない。
それは”自分”という人間に対しての。
なんせ自分への探求は生涯続くものだから。
今後の記事の質向上のための資金として使わせていただきます!