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6-8.向かう先は日本

日本への艦隊派遣の決定をした頃(1851年5月)のアメリカは、前途になんの不安も感じておらず、バラ色の未来を感じていたはずです。中国への玄関口となるであろうカリフォルニアでは金鉱も発見され、州内の人口が爆発的に増えていた時期です。「日本開国提案書」を作成したアーロン・パーマーは太平洋に大きなビジネスチャンスをみたのです
 
「サンフランシスコは太平洋岸の商業の中心となることは疑いない。この町が東部諸州と鉄道で繋がったとき、ここはチャイナ(市場)への出発点となる....鉄道を敷き肥沃なこの土地を耕作するには、チャイナから労働力を輸入する必要がある。チャイニーズほど荒地開拓に適したアジア人種はいない」(「日本開国/渡辺惣樹」P170)

※大西洋岸からカリフォルニアへの移動は3通りあった。1つは陸路。幌馬車が使われた。もう1つが南米大陸の北端を回る海路。三つ目が海路でパナマ・チャグレスへ向かい、パナマ地峡を陸路、太平洋岸に出て再び海路で北上する。この頃には、海路―陸路―海路となる3つ目のルートに、郵便を運ぶ定期船が運行を始めるようになる。すでに太平洋岸では別の蒸気船会社が運行しており、東からも西からもパナマ地峡の陸路をはさんで、ルートは確立されていたといっていい。次に考えたのは、陸路に鉄道を敷くことで、そのため1849年にはパナマ鉄道株式会社が設立された。同社は、当時パナマ地峡を領有していたコロンビア(1810年スペインより独立)からその権利を得た(出所:「日本開国/渡辺惣樹」P175〜176)。1850年に工事が始まり、開通は1855年。

両洋をつなぐパナマ運河が開通するのは1914年のことである。

これで「6.太平洋を隔てた隣人」は終わります。いよいよ、日本に「黒船」と呼ばれた巨大な船、ペリー艦隊がやってくることになります。

続く



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