語学の散歩道#11 九回二死満塁の雑記帳
これは、言語にまつわる断片を記した、いわばパッチワークのような雑記帳である。綻びがある端切れは、「中継」の糸で縫い合わせてみた。
私が面白いと思う映画やドラマのストライクゾーンは、たぶん狭い。つまり、人によってはボール球に感じられるかもしれないということをはじめにお伝えしておこうと思う。
友人のストライクゾーンは私よりはるかに広いのだが、私のストライクゾーンをよく知っているから、滅多に狙いを外さない。
もう去年のことになるが、その友人が久々に投げてきたスライダーが、高めのアウトコースぎりぎりに決まった。それは、『バーニング・アイス』という中国ドラマである。
あらすじは、よく覚えていないので割愛する。
覚えているのは、漢字表記の看板がなければどことなく東欧を思わせるような街並みと、それを包む雪、そして赤インク以外の何物でもない血の色である。しかし、このドラマティックな赤い色は、かえって私の背筋を凍らせた。
1話目を見終わったあと、頭の中で何かが鳴り響いた。キャラクターもストーリーもなかなかよいのだが、もっと低音の、もっと深い部分で、何かが私の意識に触れている。2話目を見ている時、その感覚が突如として視界に浮上してきた。
これは、浦沢直樹だ。
実写版のドラマにも関わらず、ストーリー、画面構成、役者の表情や動き、台詞(中国語は分からないが字幕の雰囲気で)、そして音楽、その何もかもが浦沢直樹氏の世界だった。
3話目に入ると、私はたまらず鉛筆を手に取り、スケッチをはじめた。これ以降、私にはこのドラマが浦沢漫画にしか見えなくなってしまった。
まあ、私の周囲では、ウケていた…。
※ストーリーと登場人物が気になられた方はこちらの公式サイトを↓
原作は小説らしいが、実は日本の漫画が影響を与えたのではないかと思っている。中国ドラマを見ていると、時々そんな既視感を覚える。あるいは、同じアジア系民族ゆえの単なる類似だろうか。
ある日、そんなデジャヴ感を全く寄せつけない、四大奇書を世に送り出した大国の本領が発揮された作品を偶然見つけた。呉謹言主演の『瓔珞』という、乾隆帝時代の清王朝における「大奥」歴史ドラマである。
通常この手の番組評は誇大広告であることが多いのだが、ファンタジーや甘いラブロマンスが人気を博しがちな中国歴史ドラマの中で、『瓔珞』は圧倒的に群を抜いていた。衣装や調度品の完成度も高く、イケメン度マックス、美女感天井超え、ストーリーのエンターテイメント度は天文学級である。
全70話という長丁場にも関わらず、全球をストレートど真ん中に決めてきた『瓔珞』は、シーズンを通してノーヒットノーランを達成した超弩級のドラマだった。
私は中国語が分からないので、ドラマを見ていてもミャーミャーニャーニャーとしか聞こえないのだが、これはネコ派を自認する私に対して絶大なマタタビ効果を発揮した。
それにしても、この中国語の美しい響きはどうだろう。まるで胡弓が歌う旋律のようだ。漢詩や漢文は、返り点など打たずに中国語で楽しむべきだとこのとき確信した。
思えば、日常生活を送る中で嫌なことや気分が塞ぐようなことはなかなかあるものだが、紫禁城の中で生死を賭けて戦う運命に比べれば、全くチョロイものである。孫子の兵法そのままの策略を繰り広げる登場人物たちの機知や直感の鋭さに、中国という国の偉大さを改めて思い知らされる。民主主義の観点からみれば諸々の問題があるとはいえ、中国人の哲学には学ぶところが多い。
さて、そんな中国への敬意から、私の中国語への興味は必然的に大きくなる。定年退職後に中国語を勉強すると意気込んでいた父の、「予定は未定」となったリスケ必至の退職カレンダーは、いまだ1枚もめくられることがなく、文法書はいい具合に日焼けした。
文法書というと、難解な文法論と例文で構成された退屈なものだと思われる方も多いかもしれないが、さにあらず。中には、日常生活のどこでこれらの例文を使えばよいのかと悩んでしまうものもないことはないが、蓋し例文をナメることなかれ。書名は忘れたが、父の文法書には強豪な例文選手が勢揃いしていた。
九回裏。先頭バッターは6番から。
際どいインコースを攻めて、最後は見逃し三振。まずは一死。続いて7番バッター。
ツーストライクと追い込んだあと、高めのボール球で誘ってなんとか空振り三振。これで、二死。ここを抑えれば勝ちである。
次のバッターが構えた。
ライト前にヒットを打たれ、ランナー1塁!
ピッチャーの制球が甘くなってきた。
続いて9番バッター。
まさかの右中間への長打で、ランナー2、3塁!
強肩のライトのおかげでなんとかランナーは3塁で止めたものの、ピッチャーが動揺している。
そして、1番バッターが軽く素振りをしながら、バットを構えた。
アウトコースが僅かに外れて、四球。
気が付けば、九回二死満塁のピンチである。
打者の抜群の選球眼に、ピッチャーの肩が震えている。たまらずマウンドへ駆け寄り、声を掛けて落ち着かせる。
ラストバッターは、ここで代打『スペイン語 基礎から応用まで』。なんとしても抑えなければならない。バッテリーに緊張が走る。
かくして、配球は以下のとおりである。
散々ファウルで粘られ、最後は、死球…。
押し出しの、サヨナラ負けである。
明日からはベンチ入りはおろか、球拾いからやり直さなければ。
なお、これらの例文選手たちは皆、れっきとした正規の「文法所」で育成された選手たちである。
語学リーグ優勝への道のりは、まだまだ遠い。
<語学の散歩道>シリーズ(11)
※このシリーズの過去記事はこちら↓
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?