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語学の散歩道#18 言の葉を淹れる

行間を読む極意。
そんなわざがあるとしたら、ぜひ手に入れたい。


私の上司の指示や報告はとても短くて簡潔だ。

外出先から戻ってきて静かに机に向かっていると思いきや、突然、
「やったおいた」
と、ひと言。

私は「ありがとうございます」と答えながら、一体何を「やっておいた」のだろう、と考える。
そして、きっとアレだなと思いつく。その後で、上司の言葉は右から左へ流れて、やがて滝つぼへと落ちていく。


あるときは、同音異義語のような表現もある。

オフィスへ入ってくるなり、
「うえ、いってきた」
と、ひと言。

「上に行ってきた」のか「上に言ってきた」のか分かりづらいが、この場合は「上の部署に行って言って(報告して)きた」が正解である。


毎度毎度こんな調子なので、上司とのやり取りは一筋縄ではいかない。
行間を読もうにも、そもそも行間が存在しない。

大人の表現として粗忽者という言葉が不適切であれば、口数が少ない人だといえば適切だろうか。


主語や目的語の省略は言わずもがなで、名前すら呼ばれず、いきなり言葉が飛んでくるのは日常茶飯事。上司の在席中はパソコンの画面に集中しながら、目線の端に上司の動きを察知するだけのバッファーを残しておく必要がある。

こういうわけで上司との会話にはなかなか難儀するのだが、日本語の「行間を読む」という表現は、英語でもread between the line というのが面白い。


ある日、『The Thursday Murder Club木曜殺人クラブ』を私に薦めてくれたイギリス人に、面白かったよと感想を伝えたところ、

「それはよかった。それで、誰が好きだった?」

と尋ねられた。

本の感想ではなく、好きな人物は誰かと聞かれたことに少々面食らったものの、
「エリザベス」
と、私はろくに考えずに即答した。

ほとんど条件反射である。


長年語学をやっていると、こんなふうにキラーパス的に繰り出される質問に対して、咄嗟に反応する癖がつく。
そして、咄嗟の質問に咄嗟に答えると、すかさず次の質問が飛んでくる。

「なぜエリザベスなの?」
「ええっと、論理的で頭脳明晰で機転が利いて、何よりユーモアがあるから」

彼は私の答えに満足そうに頷くと、
「僕はイブラハムだな」
と言った。

私の方でも、
「どうして?」
と、一応聞いてみた。

本音を言えば、この質問は私にとって必要でも重要でもなかったのだ。なぜなら、初めからきっと彼はイブラハムを選ぶだろうと知っていたから。



イギリス人と話していると、フランス人との反応の違いに驚かされることがしばしばある。

もちろん全てのイギリス人を知っているわけではないし、個人差もあるし、相手と自分の距離感もあるから一概には言えないが、イギリス人と話すときは、より多くの説明を求められる気がする。

フランス人の場合には、話の途中でも「ああ、アレね」とか、「それってこういうことだよね」という具合に、わりあい簡単に意思の疎通ができるのだが、イギリス人は相手の話が終わるまで黙って聞いていることが多く、英語の単語が思いつかずにしどろもどろしていても、ひたすら私が思い出すのを待っている。これがフランス人なら、あれやこれやと単語を連発してくるので、私が思い出す前に片がつく。

これは、どちらが親切であるとか、どちらが良いとかいう話ではない。

コミュニケーションには、ローコンテクストとハイコンテクストという文化がある、という話である。



コンテクストとは「文脈」のことであるが、上記の二つの言葉はコミュニケーション能力の高低を表しているのではなく、コミュニケーションスタイルの文脈への依存度を表している。

すなわちローコンテクストとは、言葉の文脈に頼らず、単純明快にはっきり言葉にするコミュニケーションスタイルのことである。

これに対してハイコンテクストとは、意思の疎通を図る際の言語や価値観、考え方などが近い状態にあり、相手との間に暗黙の了解や前提となる知識が共有されていることで可能になるコミュニケーションスタイルである。「その場の空気を読む」という表現が近いかもしれない。


Erin Meyer のThe Cultural Map によると、主な外国語の分布は以下のようになるらしい。


研究者によって英語とフランス語が逆転している場合もあるが、いずれの場合も中国語や韓国語とともに日本語はハイコンテクスト文化に属しており、アジア圏の言語はどうやらこちらの方に属する傾向にあるようだ。


具体的にいえば、英語の特徴として、言葉が細かく分かれていることが挙げられる。

たとえば、日本語の「見る」という言葉は、英語だとsee、look、watchという単語に分けられる。
もちろん日本語にも「見る」と「観る」があり、両者の間ではニュアンスがやや異なるけれども、 耳で聞く分にはその違いはわからない。
それに対して、英語の場合、これらの動詞は完全に使い分けられている。

ついでながらフランス語だと、「見る」という単語にはvoirregarder の2つがある。


私は言語学者ではないからこれ以上のことは説明できないが、ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化の違いは原書に触れるとよくわかる。


本を買うとき、私は同じ本を異なる言語で買うことがよくある。
そして、大抵の場合、フランス語版よりも英語版の方が読みやすいと感じる。


ピエール・ルメートルの『Alex』(邦題は『その女アレックス』)を例に考えてみたい。


まず、フランス語の原文から。

Alex adore ça. Il y a déjà près d’une heure qu’elle essaye, qu’elle ressort, revient sur ses pas, essaye de nouveau. Perruques et postiches. Elle pourrait y passer des après-midi entiers.

アレックスはそれが大好きなのだ。もう1時間近くも試して、繰り返して、引き返してはまた試している。ヘアウィッグとヘアピース。毎日午後の間ずっとここで過ごせるほどだ。

< 敢えて直訳 >


これに対して、英文は以下のように訳されている。

 Alex is in seventh heaven. She has been trying on wigs and hair extensions for more than an hour now, hesitating, leaving, coming back, trying them on again. She could spend all afternoon here.

アレックスは有頂天である。もう1時間以上もヘアウィッグとヘアピースを試している。あれこれ迷っては行ったり来たりして、また試す。午後の間ずっとここで過ごせるのは間違いない。

< これも敢えて直訳 >


翻訳者の文章にも依るためなんとも判断がつかないところはあるが、フランス語に比べると英語の方がより明確に場面が表現されていることに気がつく。

ちなみに、この引用箇所の邦訳は以下のとおりである。

アレックスはその店で過ごす時間が楽しくてたまらなかった。今日も先ほどから一時間も、とっかえひっかえ試してみている。一つ着けてみて、どうかしらと迷い、試着室を出てほかのを選んできて、また着けてみる。その店にはヘアウィッグとヘアピースがいくらでもあり、毎日でもここへ来て午後を過ごしたいくらいだった。

< 橘明美訳 >


かなり補足された感はあるが、直訳だと非常にわかりにくい冒頭だ。第一、名詞の単数複数や冠詞などが持つニュアンスは日本人にとって馴染みがないし、一つ一つの単語のイメージもネイティブと同じレベルまで落とし込むのは容易ではない。


以前、別の記事でフランス語の「凝集性」について触れたことがあるが、これについて鷲見すみ洋一氏の『翻訳仏文法』から例を引用してみる。
(比較しやすいように英語訳を添えておく。)


La femme a le panier. / The woman has the basket.
La femme qui a le panier / The woman who has the basket
La femme avec le panier /  The woman with the basket
La femme au panier / The woman of the basket


 「女性がカゴを持っている」という文章が「カゴを持った女性」へと変化していくのだが、最後のthe woman of the basket 「カゴの女性」という言い方は、英語だと意味をなさないのではないかと思われる。

ところで、こういう文章から単語への凝縮がどんな利点をもたらすかというと、これも同書からの引用により、以下のような表現が可能になることで理解できる。


Cette femme au panier me dit bonjour.
かごを抱えたその女はおはようと言った。


つまり、英語だとThe woman who had the basket said to me, “hallo” と表現されるであろう文章が、The woman with the basket said to me, “hallo” という、より短くて締まった文章に置換できるというわけである。


同書ではさらに、

Sa conduite prudente

という表現が取り上げられているが、conduiteという名詞には「運転」という意味と「振る舞い」という意味がある。
そのため、この表現は以下のように二通りの解釈ができる。

Il conduit prudemment.
あの人は安全運転だ。
Il se conduit prudemment.
彼は慎重に振る舞う。


こうしてみると、やはり英語よりもフランス語の方がハイコンテクストカルチャーであるように思われる。

では、この二つのコミュニケーション文化は私たちの生活においてどのような違いをもたらすのだろう。


ここ数年、対面でのコミュニケーションが制限されていた事情もあって、オンライン会議やチャット、SNSなどを使ったコミュニケーションが増加した。


デジタル媒体を使用した、おもにビジネスシーンでのコミュニケーションには、簡潔で明瞭な文章が求められる。冗長で曖昧な美文調の表現などはむしろ誤解を招くものとして敬遠される。つまり、こうした場面においては、ローコンテクスト文化がふさわしいといえる。


私は流行語というのが苦手で自分ではなかなか使いこなせないのだが、先日「タイパ」という言葉が英語のクラスで話題に上った。いわゆるZ世代で重視されている概念らしいが、「タイパのため、本は最初と最後しか読まない」人々がいるという話が出た時には、すっかり驚かされてしまった。

これは極端な話なのだろうが、画面をスクロールしたり、次から次へとスワイプしたりする動作を目にすると、文章を読むことに時間を割かないということを裏付けているように見えなくもない。

紙の本を手にとってじっくり読むという行為は、加速化する現代社会においては置き去りにされてしまったのだろう。街から本屋が消えつつある現象も、こうしたコミュニケーション文化の変化を表しているのかもしれない。


もちろん、どちらの文化が正しいとか、どちらを優先すべきかという話ではないから、互いの優劣を競うものではない。

そうではなく、コミュニケーションの壁というのは言語の違いだけにあるのではないのではないかということを考えてみたかったのだ。



相手の話を理解するには、ただ傾聴すれば良いのではなく相手を理解する必要があるのだと、上司の読めない行間を探りながら、今日もまたお茶の葉を淹れるようにことの葉を淹れている。



<語学の散歩道>シリーズ(18)

※このシリーズの過去記事はこちら↓





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