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原書のすゝめ:#24 The Secret Adversary

1915年5月7日、アイルランド沖を航行中のイギリスの大型客船ルシタニア号が、ドイツの潜水艦によって撃沈された。Uボートから無警告で魚雷が発射され、ルシタニア号は20分足らずで沈没、乗員乗客1198名が死亡した。このうち128名がアメリカ合衆国の民間人であったことから、国内で一気に反ドイツ感情が高まる。ところが、同国は依然として中立を維持、その後、ドイツが再び無制限潜水艦作戦を開始したため、1917年、ついにアメリカは第一次世界大戦への参戦を決意した。


Agatha Christieの『The Secret Adversary』は、第一次大戦終結から間もない1922年に、上記の史実をヒントに描かれた冒険スパイ小説である。

このとき、クリスティー31歳。

主人公は、Tommy Beresford とPrudence Cowley、通称 Tuppence タペンスと呼ばれる若い男女である。トミー&タペンスシリーズは長編小説4編と短編が15作ほど書かれており、二人が最初に出会うシリーズ第1作目が本書である。



Chapter 1

The Young Adventurers, Ltd


“Tommy, old thing!” “Tuppence, old bean!” The two young people greeted each other affectionately, and momentarily blocked the Dover Street Tube exit in doing so. The adjective “old” was misleading. Their united ages would certainly not have totalled forty-five. “Not seen you for simply centuries,” continued the young man. “Where are you off to? Come and chew a bun with me. We’re getting a bit unpopular here — blocking the gangway as it were. Let’s get out of it.”

「トミー、なつかしの友オールド!」
「タペンス、お馴染みのオールドきみじゃないか!」
 二人の若者は愛情をこめてあいさつを交わし、地下鉄のドーヴァー・ストリート駅の出口の流れを一瞬止めてしまった。“老いたオールド”という形容詞はふさわしくない。二人の年齢を足しても、合計で四十五歳に満たないからだ。
「ほんとうに久しぶりだな」トミーは言った。「どこへ行くんだ? ちょっとお茶でもしないか。ここに立ち止まっていたら迷惑になるよー通路をふさいでいる。外に出よう」

<『秘密組織』野口百合子訳(創元推理文庫) >


イギリスの小説やドラマにおいてold という単語は、old boy、あるいはold girl などという呼びかけでよく使われるが、必ずしも文字どおりに「老いた」という意味ではなく、「なつかしの」という親しみを込めた意味合いがある。

トミーとタペンスは幼馴染みで、「二人の年齢を足しても、合計で四十五歳に満たない」若者である。

本書は、クリスティーのデビュー作『スタイルズ荘の怪事件』に続く長編第2作で、クリスティーの作家としてのみずみずしさがこの二人の登場人物から伝わってくるようだ。


ところで、クリスティーの作品には、ときどき変わった名前の人物が登場する。ネーミングセンスについて他人のことをあれこれ言えた義理ではないが、クリスティーのネーミングセンスには時々驚かされることがある。

今回の登場人物についても、トミーは普通だが、その相棒であるタペンスという名前は、少々変わっている。

* * *

The very faint anxiety which underlay his tone did not escape the astute ears of Miss Prudence Cowley, known to her intimate friends for some mysterious reason as “Tuppence.”

その口調にひそむちょっとした心配を、親しい友人たちから謎の理由で二ペンスタペンスと呼ばれているミス・プルーデンス・カウリーの鋭い耳は聞き逃さなかった。

< 前掲書より >


「タペンス」には「二ペンス」という意味があるらしく、これについては本書の解説で吉野仁氏が以下のように説明しておられる。

 映画「メリー・ポピンズ」(1964年公開)は、1910年のロンドンを舞台にした物語だが、この映画で歌われる子守歌“Feed the birds”の邦題は、「二ペンスを鳩に」である。これは、セント・ポール寺院前で鳩のエサを売るおばあさんの歌だ。二ペンス硬貨一枚は鳩のエサ一袋のお金なのである。このようにタペンスは小さい金額ゆえ、転じて、わずか、つまらない、という意味でも用いられる。成句 not care tuppence(twopence) は「まったく心配ない」ということ。冒険心の強いタペンスの性格をまさに表している。


そこで、手持ちの『ジーニアス英和辞典(改訂版)』を引いてみると、たしかに「Two-a-penny:(英)ありふれた、値打ちのない」とある。しかし、邦訳だけを読むとタペンスが「二ペンス」を表し、かつ「つまらない」というダブルミーニングがあることには気づかない。そして、このネーミングにはさらに仕掛けがあるのだが、これについてはぜひとも本書を読んで発見していただきたいと思う。しかも、原書でなければこの仕掛けには気がつかないということも、原書を読む醍醐味である。


二人が事件に巻き込まれる発端となったのは、久しぶりにロンドンで再会したトミーとタペンスが、カフェで近況を語り合いながら、「若き冒険家商会ヤング・アドヴェンチャラーズ(野口百合子訳)」を設立し、高額報酬で仕事の依頼を受けるという計画を思いついた時である。その後、その話を近くで聞いていた男がタペンスに怪しげな仕事を持ち込んでくるのだが、二人が相談しているときの様子がいかにもイギリスらしく、コミカルで楽しい。

* * *

Tommy ordered tea and buns.

トミーはお茶と菓子パンを注文した。

< 前掲書 >

ここでは菓子パンと訳されているが、bun にはいろいろ種類があるらしい。

< 上はホット・クロス・バン >


 “And mind the tea comes in separate teapots,” she (=Tuppence) added severely.

「それからお茶は別々のポットでお願い」彼女は遠慮なくつけくわえた。

< 前掲書 >

紅茶はもちろん、ティーポットで頂く。


さて、この後二人は、トミーが偶然耳にしたジェイン・フィンという女性の名前をタペンスが口にしたことから、イギリスの命運に関わる秘密文書争奪戦という大事件に巻き込まれていく。


ついでながら、このジェイン・フィンという名前の由来について吉野仁氏が解説で述べられていたので、長年積読になっている『Agatha Christie an Autobiography』をひも解いてみた。


『スタイルズ荘の怪事件』の執筆後、次回作について考えていたとき、ひょんなことから『秘密組織(秘密機関とも)』の着想を得たのである。

The question was solved for me one day when I was having tea in an A.B.C. Two people were talking at a table nearby, discussing somebody called Jane Fish. It struck me as a most entertaining name. I went away with the name in my mind. Jane Fish. That, I thought, would make a good beginning a story — a name overheard at a tea shop — an unusual name, so that whoever heard it remembered it. A name like Jane Fish — or perhaps Jane Finn would be ever better. I settled for Jane Finn — and started writing straight away. I called it The Joyful Venture first — then The Young Adventurers — and finally it became The Secret Adversary.


ABCショップというのは、ロンドンの軽食チェーン店なのだそうだ。
近くのテーブルで話題にのぼったジェイン・フィッシュという面白い名前が『秘密組織』を描き始めるきっかけになったというエピソードである。

名前と言えば、もう一つ。
タペンスの本名「プルーデンス」も本来は「慎重な」という意味を表す形容詞だが、タペンスの性格はむしろ正反対だ。こういう言葉遊びのような名前もクリスティー作品の魅力の一つかも知れない。


クリスティーのスパイ作品の評価は決して高くはない。
しかし、たしかに本書は本格的なスパイ小説ではないとはいえ、タクシーをこっそり乗り換えて敵に行先を誤らせるなど、MI5(英国諜報部)でも実際に使われていそうなやり口ではないか。

この作品が書かれた1922年という年代と彼女の年齢を思えば、秀逸なスパイストーリーに慣れ過ぎた現代の我々の目で評価するのはいささか酷な話だと思う。


スパイ小説としてのディテールはともかく、本作はユーモア溢れる、初期のクリスティーの作風が味わえる作品である。


※ホット・クロス・バンについて、山口ももさんの素敵な記事を見つけました。(2024年5月7日追加)↓


<原書のすゝめ>シリーズ(22)

※このシリーズの過去記事はこちら↓



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