語学の散歩道#13 言語を、嗅ぐ
ロシア語を学ぼうと思ったことは、一度もない。
理由は簡単だ。
文字が読めないからである。語学学習では必ず発音練習をともなうが、未知の言語に遭遇したとき、この練習の重要性を痛感することになる。
たとえば、以下はすべて「りんご」という単語。
私は暗記が得意ではないから半分も覚えられないが、暗記以前に問題なのは、そもそも発音ができない文字があるということだ。
オランダ語や北欧諸語は英語と同じくゲルマン諸語に属しているから、英語のappleを基本形にすれば覚えられそうだ。さらに、アイスランド語やフィンランド語あたりまではどうにか覚えられる気がする。
ところが、ギリシア語やペルシア語、ヒンディー語、ヘブライ語、ネパール語、モルディブ語にいたっては全く歯が立たない。一方で、チェコ語とポーランド語はなんとかイケるかもしれない。しかしながら、同じスラブ諸語のロシア語は完全にお手上げだ。
つまり、文字が読めないというのは、語学学習において致命傷なのである。読めない文字、すなわち発音できない文字を覚えるのは非常に難しい。文字という視覚的情報だけで言語学習をするのは容易ではない。
ロシア語はフランス語に似ているとよく言われるが、発音に関して言うと、私の感想は少し違う。
巻き舌のr はフランス語にはないし、母音に強勢を置いて長く伸ばすような発音もあまりない。フランス語は抑揚も少なく、スウェーデン語などに比べるとむしろ平坦といっていい。
ロシア語の発音は、私にはドイツ語(巻き舌や[ʃ]の音が)とイタリア語(母音を強く長く発音するところが)を混ぜ合わせたような音に聞こえる。もちろん個人的な感想にすぎないが、当面はそれで構わないと思っている。未知の言語に接する場合、まずは自分の感覚を大切にしたいと思うからである。文法という筋トレは徐々にやっていけばいいと気楽に構えている。
さて、それでは何故ロシア語に関心のない私がロシア語の話をするのか。
ここ数年、黒田龍之助さんの著書が愛読書のトップを占めていながら、黒田さんのロシア語への誘いに乗ることは一度もなかった。外国語の香りを味わいながらも、その香りにロシア語が加わることはなかったのである。いくら黒田さんの本が面白くても、ロシア語のテキストを開いた瞬間にその甘美な香りは現実という瘴気に消されてしまうからだ。
ところが、である。
2013年にウクライナで放送された『Нюхач』というドラマが、再び私の鼻腔にロシア語の香りを運んできた。英題はThe Sniffer といい、随分前に別の記事で少し触れたことがある。日本では2016年にNHKが主演に阿部寛、共演者に香川照之を起用してリメイク版を放送した。私はこちらの方を先に見ていた。キャラクターの設定も捜査方法も斬新だったので感心していたら、友人からオリジナルはウクライナのドラマだと言われて驚いたのを覚えている。
そのときから5年以上経ち、記憶を揺さぶられて思い出したわけだが、オリジナルにお目にかかれるとは思っていなかったから、これは嬉しい偶然であった。
初めてウクライナ版を見たときは日本版の記憶を辿っていたため、ストーリーを含めてあまりよく見ていなかった。ところが、2度目に見たときにロシア語の香りが漂いはじめた。サモワールの立てる音が紅茶の香りを運んでくるように、ロシア語の音がロシア語の香りを運んできたのだ。
私が知っているロシア語の単語といえば、スパシーバとパカぐらいだ。貧弱というレベルをはるかに下回る語彙力だが、ドラマの会話を聞きながら、ダーが「はい」、ニェットが「いいえ」だとわかった。時々聞こえるポニョ(崖の上の?いや崖っぷちは私か?)は、どうやら「了解」という意味らしい。
ロシア語の音に関しては、[p]や[t]、[k]、[v]、[z]のような子音が強く発音され、[ʃ]や[nya]、巻き舌を伴う[tr]、[kr]といった音が多い。ロシア語は歯と唇をよく使う言語のようである。
なんだか少しロシア語が面白くなってきた。
そこで、調子に乗ってキリル文字に挑戦してみることにした。知ってる単語を覚えるのだ!
Спасибо
Пока
Понял
Да
一文字も読めない…。
というか、Д はキリル文字だったのか。
てっきり顔文字だと思っていた …∑(゚Д゚)!
速攻で秒殺されたので、キリル文字の件はもう忘れてドラマの話に戻りたい。
主人公は特異な能力を持っている私立探偵で、演じるのはウクライナ人のキリル・カロ。
その特殊な能力とは、非常に鋭い嗅覚である。あまりにも鋭敏すぎるため、普段は鼻腔に詰め物をしてニオイを遮断しなければならない。特別捜査局のヴィクトル中佐(のちに大佐へ昇進)から犯罪現場へ呼び出されると、現場に残されたニオイを手掛かりに犯人のプロファイリングを始める。
たとえば、40代の男で白髪混じり、糖尿病を患っていてインシュリンを投与している、という具合だ。しかも、それは単なる当てずっぽうの推理ではなく、有機化学の知識に裏付けされた科学的な分析に基づいている。
家にあるラボにはニオイの標本が規則正しく並べられており、蒸留器のような器具でニオイの素である成分を単離(混合物を分離して成分などを抽出)する。ウクライナとEU諸国で使用されているタイヤや、生産されているタバコの違いを嗅ぎ分け、犯罪現場や犯人の特徴を特定していく。その過程では、ウクライナの文化的、社会的事情もうかがい知ることができ、とても興味深い。
同じようなキャラクターとしてカンバーバッチのシャーロックを思い出す方もおられるかもしれないが、ちょっと違う。傲慢で無愛想な態度と、社会からのはみ出し者のようなところは似ているが、別れたとはいえ妻子がいて、家族や友人への愛情も淡白ながら表現できる。もしかしたら、鋭い嗅覚という特殊能力を維持するために他人との距離を取る必要があるだけなのかもしれない。
だから、彼の部屋に入る時には防護服を着せられたり、エレベーター内で消臭(あるいは殺菌か)スプレーが噴射されたりする。
そんな彼のことを人は「スニッファー」と呼ぶ。
しかし、実の名は…。
?…… 誰だ?
いつもの人名健忘症が出てしまったためGoogleで検索してみたところ、なんと結果は、「スニッファー」。主役に名前がないなんて、いや、そんなはずはないだろう。
そこでDVD(そう、買ってしまった)のケースを見ると、やはり「スニッファー」と書いてある。主人公なのにあだ名で、それもスパイドラマのコードネームのような名前で呼ばれている。
しかし、いくら耳を澄ませて聞いてみても、誰も彼の名前を呼んでいる気配がない。スニッファーは英語だからロシア語だと別の単語だと思われるが、イワンやセルゲイなどと呼ばれていたら、いくらなんでもわかるはずである。
結局、シーズン2まで見終わっても分からずじまいだった。
謎が解けない名前の件はひとまず脇へ置いておくとして、スニッファー以外の登場人物も実にユニークである。美人に目がない特別捜査局のヴィクトルや気が強い元妻ユーリャ、美人女医のタチアナ、難しい年頃の息子アレックスなど、個性的な登場人物たちの気の利いたやり取りもこのドラマの魅力である。
あるエピソードで、高齢者しか住んでいない田舎村を訪れる場面がある。スニッファーとヴィクトルの二人を出迎えた老婆に、
「やあ、婆ちゃんたち!」
とヴィクトルが男っぷり全開で声をかけると、
「あんたたち、嫁さん探しかい?」
と老婆に茶化される。
一本取られた顔のヴィクトルがかわいい。
ロシア語のドラマでユーモアを感じられるとは思っていなかったので、これは意外だった。ロシア人やウクライナ人がユーモアを解さないと思っていたわけではなく、知らない国の言語でも国境を越える「笑い」があるということに少なからず驚かされたのである。
これを機に少しロシア語をやってみようかという誘惑に駆られて、ロシア語の書棚に行くと、案外たくさん置いてある。そこで、黒田さんの著書をいくつか手に取ってみた。
『ロシア語の余白の余白』という本の帯には、「この本でロシア語は身につかない!」と書かれてある。相変わらず面白い方である。私がひとえに語学を続けていられるのは、外国語を学ぶ楽しさを教えていただいた、この黒田節ならぬ黒田講のおかけだと思う。言語の習得という難題に挑むにあたり、急を要するのでなければ、さしあたり外国語を楽しむという側面から始めるのは、決して邪道ではないと思う。難しい文法書はあとでじっくり選ぶことにして、とりあえずドラマでロシア語をかじるのも悪くない。
そこで、ふと気がついた。
なんと私は犯人が誰だか覚えていないのである。
どうやら、言語の香りに酔いすぎたようだ。
↓こちらのYouTubeで全エピソードが見れます。(歯車マークで英語字幕が選択できます)
ラトヴィアのバンドBrainstorm のオープニングもクール。
<あとがき>
2019年のシーズン4まで続いたこのドラマには、ロシア語が使用されていたのだ。だが後に、友愛の均衡は一瞬で瓦解され得るという現実を突きつけられることになってしまった。
〜ロシアとウクライナの皆さまに、一刻も早く笑顔と平和が戻ることを祈って〜
<語学の散歩道>シリーズ(13)
※このシリーズの過去記事はこちら↓
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