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変化

『京都人の密かな愉しみ』が恋しくなって、改めて見直している。

この作品を見てから、去年の春から今年の春にかけて二十四節気七十二候を意識して暮らしてみた。あまりに知らないことが多すぎて驚いた。「なるほどなぁ」と思うことも多かった。

その後、『古事記』に興味を持ち、あれこれ調べたり動画を見たり、神社に行ったりもした。そして、夏には京都に行ったりもした。

そういう経験をしてからもう一度作品を見ると、格段に面白さが増した。

本にしても、音楽にしても、何でも経験値が増すと理解が深まりその都度感じ方が変化する。だから、何度も繰り返し読んだり聴いたりしている。

それなら、この私の人生はどうだろう?もしも、生まれた瞬間からの私の人生をもう一度なぞっていけるとしたら…。

伏線回収のように「あの時のあれがここでこうなるのか!」という、大きな時系列の流れをつかむのは楽しいかもしれない。けれど、一つ一つ、つぶさに見ていくのはどうだろう。心がギュッとしんどくなることもあるだろうし、見たくない光景もある。「そんな意味も込められていたのか」と有り難さを感じることもあるだろう。

もう一度、全てを体験することはないにしても、振り返りたくない何かや忘れてしまった懐かしいことをふと思い出した時に、置き去りにせずに咀嚼して消化してみようかなと思う。これまでのようにnoteで記事にするかもしれない。

このところ思うのが「あれ?この考え方はなんだかおかしくない?」ということ。
子どもの頃から普通に知識として取り入れていたこと。私のベースになっているものが、少しずつ入れ替わってきてはいるけれど、素直に取り入れてきたものが最近「あれ?」となってきている。

時代とともに価値観が変わってきたことで気づいたこともあるし、そもそも間違ったことをそのまま鵜呑みにしていたこともある。「気づくのが遅すぎだろ」と思うこともあるけれど、きっと、いまなのだろう。

ここ数年でもだいぶベースが変わってきたけれど、ここからまだまだ変わるだろう。それは、ちょっとワクワクすることではある。