昔 神社は人社と言われていた事をご存知ですか?

神社は今でこそ「神社」ですが、
その昔は人社と云う字が宛てられていました。
おそらく場所に拠ってはまだ、この旧字体が残されているところもあるかとは思います。

以下は魏志倭人伝の記録ですが、
そこには俾彌呼と記載がされた人物の行った説明として

とある一定の人をここに集めている
と残されています。

「とある一定の人」とは一体どんな人なのか?
そこには詳しくは書かれておらず、俾彌呼に拠ってその記載は伏せるようにと要望された旨が続いているのみですが、渡来者はその事実と理由を聴き、甚く感銘して自国に持ち帰りたいと願い出ました。
俾彌呼は最初は渋り断りましたが、渡来者の熱心な言葉に少し思案の上で許したそうです。

興味深いのは、その時に持ち帰って採用されなくても気を落とすなと言われた事と、渡来者がどうしてまだ話もしていないのにそんな事を云うのか解らずかなりの間悩み、また俾彌呼に訊ねたそうですが、俾彌呼は持ち帰れば判るとだけ告げたそうです。

結局は俾彌呼の言った通りになって悲しみ打ちひしがれた渡来者はどうして解ったのかを問うたそうですが、その時の返答に大変に驚愕したと記されてあります。

「大国でなを且つ おのこであればこのやふな事は瑣末と云ひ 取り上へもせぬ事は一望せずとも予測は吐かふ」

と言ってのけ、同じ事を云われたと更に驚愕し、腰を抜かして立てなくなったとの行りまでありました。
俾彌呼の政治的な手腕の片鱗をここで垣間見る事が出来ますが、その故にこそ渡来者は興味を深く持ち更なる説明をと乞うたその時の眼差しと気迫に気圧されたと吐露している程なのです。

それほどの事とは?

後日。
いつもより人を払ったようで人気の無い日に、いつもとは違って遠くの簡素な部屋に通された渡来者はその時自身の死を覚悟した、と後日書き連ねています。
いつもより半日ほど長く待たされた挙げ句にいつもなら訊かれる食事も奴婢の挨拶すらも無く忘れられたのかと思い悩んでいたところにようやっとで姿を表したのは、同じく簡素な出で立ちの俾彌呼その人である事すら気付かずに、人払いのためにこのようなところで申し訳無い旨を謝罪した人の物越しで始めて気付いて更に驚き、またしても腰を抜かしそうになったのだとか。その驚きや、如何ばかりか。

その場所での話は同じく人払いの意味も込めて持ち出さぬ事を願うと云い掛けたが、それは今後人目に着くかを問うと、渡来者はあの一件以来興味も失せたようで報告の必要無しとの仰せであると伝えると一転して


「ならば ここに据へ置いて帰られよ」

と云うや話そうと顔を覗き込んだ、その目の恐ろしさ、緊張感、そして得体の知れぬ気迫と共に妙な安心感を覚えたそうだ。

俾彌呼とは彼女の名では無く、彼女の意思を伝えるためのものであり、卑賤の呼び扱いなどされるのは彌だと云う事だそうで、実際は穹―アメ―と云うのだと。彼女は戦災孤児で拾われたこの場所で奴婢として扱われたが、見鬼ー予見者ーである事をうっかり知られてしまったがためにこのような事になってしまった、仕方が無いから厭な思いをせずとも済むようにと神経を研ぎ澄ませておるところにて候らえども、とため息を吐き、どっかりと胡座を掻いていつもより近いところに対峙するや「争いは絶えぬ」と切り捨て、矢継ぎ早に


「をんな子供をまるで動物や草のやふに扱ひ 捕へ 奴婢にし 利かねば殺すと脅す これでは誰も安堵して暮らせはせぬ」

これを聴いた渡来者は初めて合点が行った。確かに権力で領地を圧し広げるおのこと、奴婢にされ、意思に反してこのようなまつりごとをさせられるのとでは、その思いは天と地ほどの差があるのも当然だ!と。そう思った瞬間に渡来者はこの血に住まう権利を、と乞うたそうだが、話は未だ終わっては居らぬ、話の終にと止められた渡来は、甚くがっかりしておると、俾彌呼、否、穹に慰められて言うには

「この先の話にて そう思わぬやも知れぬのて」

と続きの口を開きかけたところで、逆に渡来者が止めた。

「話は聴くにも及びませぬ どうぞどうぞこの侭 この血(の土)に帰りぬ 輪かー我がー願ひ 叶へ給へ」

と伏せて乞うた。そのまま、応の返事があるまで終に動かじ、との記載通りであったのか、穹は俾彌呼として如何ほどの声を張り上げようとも辞さず動かず、

「そのやふに」

と気を吐いて解き、呟いたと云う。

この国ヤマタイは山帯を意味し、その音を宛てて邪馬台ーヤマタイーの国としていた。そのヤマは崩れず、動かず、そして地は水に豊富、と。今や判明もされぬその地は兵庫県は加古郡に在る。その地には山帯とされる山岳地域が無いが故に畿内説から外されたのだが、これこそ俾彌呼が仕掛けた錯覚であるのだ。

敵に見つからぬように、戦さを避けるために。そのもうひとつの仕掛けが入れ墨である。ヤマタイでは俾彌呼以外、つまり俾彌呼が居る社以外は誰もが入れ墨を入れていた、顔にも腕にも足にも。

敵は侵入してもすぐに見付かり追い出され、または俾彌呼のところに連れて行かれた。たとい似せて紛れ込んだとしても、一言二言話をすればたちどころに見つかった。
放浪者とされる人も最初は俾彌呼のところに連れて行かれる、その真意は誰も知らず、書き留めもされて居らず知る者は社の中の限られた人数のみ、と書き記されています。

「嫌早 誰とてもはの場所に行けば確かに確かに」

その人社の中は時々血ーケツーの臭いに満ちている事すらあったが故に、中の者は大人しくそして従順に働く、と。渡来者はそれでも俾彌呼のあの気迫に少し似た眼差しの鋭さに、確かに必要だと思った。

「社への道は只 唯一つ 周りは断崖絶壁にして 降りる事は叶わぬ場所に在りて 誰もが外には出られぬ」

攻めも出られもしない城塞は中世の城の如くとすら思える、その精緻な配置。

「破れー我れーは常に戦場に居る」

この言葉を俾彌呼が努めて口にしているのを渡来者は聴いたと記していた。努めて口にしていた事からどうやら戒めであるらしく感じる、とも。
太鼓の音で開門し、太鼓の音でどちらにも知らせる、それ以外の方法は皆無。中の者は一足出れば外の者に、そして中の奴婢に止められた。たとい外に出られてもすぐに見つかる事は門が開けば一目瞭然、時には開門までに時間の掛かる事も多かったのはそのためだった。幾ばくかの漏れ聴こえる悲鳴で、開門の合図を遅らせる事も日をずらす事も侭有った事を思えばこそ、渡来者はその決心を既に決めて、密かに隠していた事になるだろう。俾彌呼はこのような場合には悲鳴の主を家族と思い、悲しむようにと公示を出していたようで、その様子を

「まるで家族か親しい誰かの最期の如き面持ち 未来の開かれむ事を」

唱ふーとなうーこの言葉を彼らが自ら発したとは やふやふ想像に及はぬ


渡来者の苗(字)を馬と言い、帰化が許されてからは那󠄁ーナ、那と邦の間のような?宛て字か?ーを名乗り、転じたとされる。この記載の裏に、俾彌呼である穹の配慮と社の存在との平衡を保つ意味での重要さに気付いていたと推測する。
また、渡来者はどうやら俾彌呼に気持ちが大きく傾いてもいたようだが、渡来者とは別に俾彌呼を支えた人物がもうひとり居たようではあったが、その記載や影は欠片も見られぬ、拠って存在を感じるその程度のものではあるが。

また、任を解かれた記録は二通になり、片方は詳細を、片方は単なる報告の形代として再び海を渡る事になる。

これをして人社の真のあるべき姿、と記してある。

そして一緒に平記されてある中に、
「女桀」なる言葉が在る。よく識者は女傑ージョケツーとして俾彌呼若しくは天照大御神の事だと指摘していたが、事実は違う。

女桀これを崇めて世に知らしめやふ。

女桀これはつまり女尊の意味であり、女傑ージョケツーでは有り得ない。何故なら続く行りには、

「戦でおのこを差し出す事も無く コメを作り 互いに笑ふて暮らせる事ほど有り難ひ事はこの世には無ひ 他国のよをに啀み合ふ事も無く この侭続く事を穹同様倭レらー我等ーも願ふ」

子供を慮る母親のように行動する

女性や思想を尊重しよう
と云う意味なのだ。

女性を、と云う意味では通じない時がある。

『穹、同様に願う』これは穹が俾彌呼であるが故に課せられた大きな危惧のひとつでもあった。
社の中の彌亟ーミコーの存在、統治の継続、そして自身の寿命と、彌亟の謀反。祀りの時の贄としてだけでは無く、

「亟行ーキョ −ク−コウーとしても只徒に人数を増やすたけてはいつかどうしやふも無くなる 手元には云与独り これではこれでは こちらも増やすか 否それはあまりにも 同じ戦災の身にそのやふな残酷な事をさせましき」

苦慮を嘆き、彌亟の不満を宥める日々に一計を按じたのは、果たして「誰」なのか?
これだけは違う気がしている、それは渡来者であった邦の提案では?とも推測しているのだが、

突如として俾彌呼は崩御する、その内側には残された彌亟の今後。而して彌亟から王が出るも僅か数日で斃れる事となる。

「徒歩でおおよそ半日のところに速歩の奴婢を走らせたが、その奴婢の戻らぬ内に狗奴国の男王卑弥弓呼が軍勢で大挙して押し寄せ」

と実際に記載にはあった。而して現存しない「晋起居注」を元に時間軸で行った修正は正しく無いと導き出される。

『後に女王卑弥呼が死ぬと径百余歩の大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬した。

ところが、後継者として立てた男王を不服として国が内乱状態となり、千余人が誅殺し合った。

改めて卑彌呼の宗女である壹與を13歳の女王として立てた結果、倭国は遂に安定した。

張政らは(幼くして新女王となった)壹與に対し、檄文の内容を判りやすく具体的に説明した。

壹與は倭国大夫率善中郎將の掖邪狗ら二十人を随行させた上で張政らを帰還させた。』
台與−ウイキペディア

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E4%B8%8E

正しくは俾彌呼の体調不良に拠る突然の崩御だ。

『ところが、後継者として立てた男王を不服として国が内乱状態となり、千余人が誅殺し合った。』


而して彌亟の中の剛者の謀反の如き権力振る舞いで王と偽り、狗奴国の男王卑弥弓呼が怒って乗り込んで来たのだ。その時には埋葬はまだ手付かずの侭である事は想像に固くはない、況してや元は彌亟とされた身であれば尚更の事。
而して狗奴国の男王卑弥弓呼は新たな叛逆者を罵り、即座に斬り殺してそのまま騒ぎに乗じた彌亟の何人かが脱走し、またそのまま戦さとなってしまったので穹と邦が残りを祓ったのが事実である。憶測ではあるが、ここで亟行の代わりとしようとしたのではないだろうかとすら思えるのは、狗奴国の男王卑弥弓呼がその一報を聴いて訪れるまでに当日かそこらの速さであった事実が読み取れたからだ。邦であればそこは書き記していたはずだが、その箇所だけは悲しみで書き漏らしたと注釈がつけられているのみ。
僅かかながらも記載が残されているのがたったこれだけ。

『壹與は倭国大夫率善中郎將の掖邪狗ら二十人を随行させた上で張政らを帰還させた』

それまでを思えば少し不可解とすら思えた。残ると懇願し俾彌呼の憂慮を知ればこそ、跡を次ぐべき思想が沸くはずだからだ。おそらくは、と思わせてくれる。狗奴国の男王卑弥弓呼は俾彌呼亡き後は娘に継がせよと強引に宣誓を木霊して台與ートヨーがその任に就く事になった、つまり俾彌呼はまんまと忌まわしき名から逃れられたのだ、奇しくも同じ任の名乗りを上げる事に拠って。か弱く判断の整わぬ云与にはあまりにも重責であり、そして民の安心をも得られぬが故の苦肉の策でもあったのだが。

そのまま安堵して居られる程穏やかでは無く、邦と共に入れ墨の奴婢の姿で残党を探す日々が続いた。
ようやっとの事で国内は探し終えたが、頭数が合わない。

空蝉の俾彌呼の墓には百余人の被害の死者、その多くは彌亟。然して数が合わぬのは顔と照らし合わせても幾許かは居た。焦っても致し方無しと思った頃に老いからの他国の侵入を許してしまう、そこには探し亟行損ねた彌亟ー久間ークマーの姿があった。

老いには勝てず、その地を離れて遠く九州=今の山口は下関まで辿り着いた先に見えた血に渡り、その血に根付く事となる。

否、時折は老体に鞭打ってでも渡ろうとしたとは思われるの理由が、以下のもの。

女桀が久間の策謀に拠ってすり替えられて男尊に女卑が付け加えられてになり、争いで権力を盛り立てると云う思想が根付くのを恐れて抵抗たと推測出来るのが、後の聖徳太子に拠る摂政の頃までの話である。

この辺りは遥か南のー九州ーは熊襲ークマショーから遥々馳せ参じた、とする謎の集団が時折り、朝廷に箴言のためだけに訪れた記録はいくらでも見付かるので端折る事とする。

また、聖徳太子はその能力の高さと思想から穹が教育して送り込んだのではないかとも推測が出来る。
女である自身よりも高い能力を発揮出来るようにと摂政としての素質を備わらせたのではないか、と。
厩戸皇子として、では無く諡である聖徳太子としての吐露記載と思われる記述もあるがこれは建築士か奴婢のものとされている。個人的には本人のものではないかと疑っている、年代測定するとどうやら後からでは無いような感じがあったのと、記載が王子のと云うよりあまりにもまつりごとの立場に偏り過ぎている嫌いがあったからだった。魏志倭人伝と比べても遜色無い思わせるほど。手が違うとは言えど、それは誰でもやる事とすれば尚更疑わしく思えてくるのだ。

『推古天皇30年(622年)聖徳太子と共に病となり、太子が亡くなる前日(旧暦2月21日)に没した。』
膳部菩岐々美郎女−ウイキペディア
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%86%B3%E9%83%A8%E8%8F%A9%E5%B2%90%E3%80%85%E7%BE%8E%E9%83%8E%E5%A5%B3

この事から両者は久間の思想を組む者に疑われ、密かに執拗に毒を盛られた可能性も否定は出来ない。
而してこれ以降、熊襲より使者は記述が無くなり、ほぼ途絶えたか追い返されたと思われる根拠として、これより後は西からの使者若しくは不審者としての記載のみで軽くあしらわれたか、拒否の姿勢のみが残されている。つまり日本の愚挙は久間に拠る私腹を肥やす思想の現れとも解釈が出来る。

また穹の、書かれなかったもうひとりの協力者はシャーマンー口寄せ−イタコーでは、と推測する。古い書付を読んでいくと時折「神社」との記載がされてある事があるのだが、神ーカムサウライーとは

神様が降臨すると云う意味での説明書付があり、光輪と著され、神様の前に平伏す者であり、意味する形として衣と祝詞ー祓い首−呪ーで成り立つ言葉を作ってある。降臨を光輪とするのは旧字体ではよく見かけた。このまま遺されてほしいとは願うが。

「その血に残りて 割れー我れーも見届けむと フす」

社を始めとする言葉や亟行のための武器が祭具として形を変えて残されている事、言葉をそのままに遺されている事からもその言葉に潜む覚悟のほどが伺え、また、今の神社の礎を築いたと思われる。

私が
この詳細を読みましたのは、もう既に30年近く前の話であります事を添えまして。

もし読んで興味が涌いた、助かった、もっとこんな事が広まればと思って下さったらお願いします。 無理にしないで大・丈・夫! あなたもゆとりを、ワタシもゆとりを。