あなたの知らない天然痘の対応策−辛子は山葵にその座を奪われた。

まずはきっかけのツイート。
お借りしました。m(_ _;)m

『自炊は嫌いではなく好きな方なのだが、外食がグッと減ったおかげで良くも悪くも食事への驚きとか予想外なことが減っていて、なんとなく刺激が欲しくなって蕎麦に胡椒を振ってみたりするursusであった』

続くリプライはこちらです。

『後悔』

それに対する私のリプライ、

上の理由とも云う。

『蕎麦にはわさび。
まかり間違っても胡椒は口の中が故障の原因になるのでお勧めしない定期。←何処に行った?!となる。』

ま、
塩っ気無いからね。胡椒は塩とセットでなくてはいけない訳では決して無いんですが、何故か蕎麦だと
どーしても胡椒はさっさと逃亡するんですわ、エエ。←カンスイ入ってないから。結局は塩・・・・。💧
※カンスイは小麦に粘りを与えて伸ばすために使います。

で、私。

辛子でやってみ!と言いまして、エエ。

※すいません、探すの諦めてしまいました、リプライ多いので・・・・・・・・・・。←。

これに関してはやってみてください、

その途端に意味が解りますから、

エエ。

で、もうひとつ。

納豆もやってみ!!

マジでやってみ!😈
騙されたと思って!

←やると解る。

で。
その昔は蕎麦はヒエや麥と同じくお粥とか蕎麦がきとして練って食べられていまして。

『古くは粒のまま粥にし、あるいは蕎麦粉を蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練り とも言う)や、蕎麦焼き(蕎麦粉を水で溶いて焼いたもの。麩の焼きの小麦粉を蕎麦に置き換えたもの)などとして食した。』
蕎麦−ウイキペディア

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6

そば粉をお椀に入れて、お湯を注いでぐりぐりかき回して半透明になって粘りが出て来たら出来上がり。そこに練り辛子を入れて当時から食していたと残されています。
ちなみに辛子はカラシナとして中国と朝鮮半島から既に輸入で入って来て、練り辛子も存在していました。読んだものには、

「ざく切りのカラシナよりも細かく刻んだ
カラシナ、細かく刻んだカラシナよりも
練った辛子の方が更に美味なり、

これを広く勧めようと思う」

なる記述までもありました。

『ソバの日本への伝来は奈良時代以前であることは確実である。『類聚三代格』には養老7年8月28日(723年10月1日)と承和6年7月21日(839年9月2日)付けのソバ栽培の奨励を命じた2通の太政官符を掲載している』

ウイキペディア

で。
この僅か11年後に天然痘が中国から輸入されているんですね。

『天平の疫病大流行(てんぴょうのえきびょうだいりゅうこう)は、735年から737年にかけて奈良時代の日本で発生した天然痘の流行。』
天平の疫病大流行−ウイキペディア

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B9%B3%E3%81%AE%E7%96%AB%E7%97%85%E5%A4%A7%E6%B5%81%E8%A1%8C

・・・・・・・・・。
当時カネを持っている人は祈祷師、所謂陰陽師に頼んで払ってもらっていましたが、市井の人々にはそこまでの財力は当然ながらありません。

然して

目の前にあるのは栽培の普及を奨励されたそば粉だけ。


「仕方無く、これを練って、更に湯で溶いて
体に塗るとざらざらなる感触は収まった。
だが、
体に貼り付いて身動きが取れぬ上、
皮膚が剥がれそうなほど痛む。
しかして川に行く事も許されぬ、

果たして、どうしたものか。」

と困った末に、同じく使ったカラシナの実を挽いた粉が目に止まります。
当時
川は生活必須のために、疫病対策として極力川には近付いてはならないとされていました。

「そうだ、同じ粉ならこれでも良いだろう。
これは良い考えだ、これなら乾かずに済む。
たとい乾いても
蕎麦のような思いだけはしなくて済む。」

かくしてそのように使われ、果ては着物にまで塗って難を逃れた話が当時の生活雑記に記されてあり、また、

「辛子を食用としての使用は決して許さぬ、
決して決して、使ってはならぬ。」

とまできつく申し渡すようにとまで書き記されてありました。
顛末として、着物にまで塗ったそれはざらざらを抑制し、天然痘の収束に一役買ったとは記されてあり、

「多少の不具合は目を瞑れば良いだけの事、
死ぬ事とくらぶれば、

なに程の事があろうか。」

とも記されてありました。が、中には不平を言うらしき者=奥方?娘?=の言葉も少々。←意訳。かなり言われた様子。

それと同時に蕎麦がきに入れる調味料としての辛子は禁じられ、代わりに山葵が使われるようになるまでには葱、生姜、胡麻、海苔、などなどいくつものフレーバーが生まれましたが

当時は山葵は沢の根と云われて猫跨ぎ扱いされ毛嫌いされた感情も同じくそこには残されていて、

山葵が主役となるまでには江戸時代を待たねばなりませんでした。

「沢の根!
あれだけはあれだけは決して許さじ。
あれほど辛くて涙の出る根っこも
他には非ず。
何故に何故に、あれほど涙が出るのか、
解せぬ。」

と近隣の者にまで見られたことを恥じ入る様子が書き連ねてありました事を書き添えまして。

もし読んで興味が涌いた、助かった、もっとこんな事が広まればと思って下さったらお願いします。 無理にしないで大・丈・夫! あなたもゆとりを、ワタシもゆとりを。