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「ヤクザと家族 The Family」現代のヤクザ像、残った空疎感。

多分、これも日本ヤクザ映画史の中に残る一本になったのだろうな、と思う。1999年から2019年の約20年間の反社世界が舞台である。主人公の綾野剛は、その中の14年間は務所暮らしをしている設定だから、結果、数年の話ということだ。

昔の任侠映画や実録ヤクザ映画もそんなスタンスの中にあったと思う。そして、務所から帰ってくると、新興ヤクザがやりたい放題だったり、その世界が変わっているということがきっかけで、昔気質の義理と人情にこだわる主人公は、最後には、怒りを全身で表して、復讐を果たすという構図が多い。しかし。その残り香はただ虚しいというところ。

多分、脚本、監督の藤井道人は、その基本線はそのままに、現代のヤクザ像というものを映画として明確にしたかったのだと思う。そういう意味で見終わった後に感想を聞かれれば、「今、ヤクザ映画を撮ったら、こうなるのは必然ですよね…。」という言葉が出てきた。ヤクザとは、題名にあるように「偽家族」だ。尾野真千子が、綾野剛に「なんで、ヤクザって、親父とか、兄貴とか呼び合うんですか?」と質問する。そういう呼び方をしあう気質のおじさんたちもいるが、それも、ヤクザ映画の影響だと思う。自分は、そういうのはすごく気持ち悪い一人だ。一部の昭和の男と呼ばれる人は、家族ごっこが好きだったりする。

多分、藤井監督もそういうのが気持ち悪い一人であろうと思う。だからかどうかは知らないが、始まって30分くらいたったところで流れるタイトルは、綾野が館と盃を交わすシーンをバックに縦書きのクレジットが流れる。初めの方で、東映任侠映画的な様式美をパロディー的に扱っているのは、時代が変わりつつあるところを観せるには上手い表現方法に見えた。そして、この映画、最初はシネスコの画角なのだが、多分、綾野が現代に務所から帰ってくるところでスタンダードの比率に画角が変わってくる。(知らぬ間に変わっていたので、明確なことがわからない)この表現がわかった人が多くいるかどうかはわからないが、これも、時代の変化をそこで示したかったのだろう、多分。「シネスコ画面を走っていたヤクザが、スタンダードな世界に封じ込まれる息苦しさをそこで感じたら」それは成功だとは思うよね、と自分なりに消化してしまったが、どうなのでしょうか?

それにしても、綾野が浦島太郎のように帰ってきた世界は、あまりにも元気がない世界で、敵も昔以上にチンピラ状態という構図。豊原功補が住んでいる家の庭が「パラサイト」のそれに似ていたのだが、真似した?

舞台の川崎を表現するのに、プラントから吹き出す煙が何度も出てくるが、これは印象的で、時代のエネルギーもそこで示しているのだと思う。上手い使われ方だと思う。最後には元気のない白い煙を吐くそれが写される。ただ、その変化を観ていて思ったのは、元気がなくなったのはヤクザだけではないよな…ということだ。ヤクザ社会は日本そのものだったりする。一昨年公開された藤井監督の「新聞記者」も、公がヤクザ組織みたいなものだという映画だったですものね。

主演の綾野剛と、無理矢理の恋人役の尾野真千子は、「カーネーション」で共演した名コンビであり、この二人の芝居の間合いは安心してみていられる。そして、ヤクザと一緒になるなんて考えていない役を尾野はいつもながらに見事に演じている。この二人で、思いっきり大人な恋愛映画が見てみたいと思ったりする。

結局は、何もかもが崩壊していき、綾野も死に至るのだが、それは、昔の任侠映画とあまり変わらなかった。ヤクザを描くということは、結局はただ虚しいことに結実する。

ラスト、寺島しのぶの息子(磯村勇斗)と綾野剛の娘が邂逅するシーンは、未来を示しているのか…?いろんなことを考える人がいるでしょうね。でも、このシーンはヤクザ映画らしくない、いいラストシーンとして印象に残った。


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