【続編】歴史をたどるー小国の宿命(71)

10代将軍の徳川家治が1786年に50才で亡くなったとき、翌年に11代将軍に就任する家斉(いえなり)は、まだ14才であった。

家斉にとって、家治は養父にあたり、実父のいとこであった。また、家斉は、8代将軍吉宗のひ孫でもある。

家康が幕府を開いてから、家斉の代で200年を迎えるのだが、幕府の財政は、ますます厳しくなってきた。

綱吉の代の荻原重秀の改革、新井白石の「正徳の治」、吉宗の「享保の改革」、田沼意次の改革でも財政の立て直しは図られたが、相次ぐ大飢饉もあって、庶民の不満は高まる一方であった。

家斉が将軍に就任する前に、今の福島県にあたる白河藩には、第3代藩主の松平定信(さだのぶ)がいた。

この松平定信も、第11代将軍の候補として目(もく)されていたのだが、結局は、家斉のもとで老中首座を務めることになった。

松平定信は、吉宗の孫であり、家斉よりはひと回り年上で、28才であった。吉宗が将軍に就任する前に、紀州藩の藩主を務めた実績があったように、定信もその実績を買われて就任する可能性は高かった。

だが、家斉がまだ15才であったことから、家斉を補佐しながら、自らの実績を活かして幕政を支えることにしたのである。

定信は、祖父である吉宗の「享保の改革」がかつて成果を上げていたこともあり、それに倣うように、「寛政の改革」を実行した。

ところで、家斉がどんな人物かは、このシリーズでもだいぶ前にさらっと触れた。

そう、愛人が40〜50人いて、子だくさんだったのである。女と遊び、贅沢の限りを尽くす家斉と、松平定信が釣り合うわけがない。

定信は、あまりにもまじめ過ぎたので、財政を引き締めるために、質素倹約を強化して、周りから反発を買ったのである。

ただ、家斉は、バカではなかった。

記憶力は優れており、馬術は上手いし、生け花も理解していた。現代でも読み継がれている三国志も好んで読んでいて、贅沢や女好きだけはどうにもならなかったのである。

せっかく優秀な松平定信が老中首座に就いても、家斉にとっては、倹約の政策は肌に合わず、将軍に就任して6年後に、定信を罷免してしまった。

こうして、家斉は、徳川将軍では歴代最長の50年間、自身の死の4年前まで将軍を務めることになる。

ときはすでに19世紀、西暦1800年を迎えようとしていた。

江戸幕府滅亡まで67年。

今週と来週、いよいよクライマックスである。ぜひお楽しみいただけるとうれしい。






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