【続編】歴史をたどるー小国の宿命(21)

いよいよ室町時代も、残すところ8年となった。

最後の第15代将軍である足利義昭が就任するまで、そんなに時間はかからなかった。

上杉謙信と武田信玄による川中島の戦いが終わった翌年の1565年に、第13代将軍の足利義輝が三好氏に殺害されたことは、前回の記事で触れたとおりである。

そして、次の第14代将軍に、足利義栄(よしひで)が三好氏によって擁立された。

足利義栄は、第11代将軍だった足利義澄の孫にあたる。義栄は、阿波国で生まれ、そこで過ごしていた。

それゆえ、三好氏とのつながりもそれなりにあったわけである。

さて、室町幕府が織田信長によって事実上の滅亡となったのは1573年であるが、1565年以降、事態がどのように動いていったのだろうか。

それを解説する前に、信長の周辺のことを少し説明しておこう。

信長が尾張国(今の愛知県西部)の出身であることは、すでに触れている。

名古屋市は、その尾張国に属しており、隣接する三河国が愛知県東部であり、今では豊川市が中心的な自治体である。

三河国以外に、尾張国に隣接しているのは、今の岐阜県である美濃国もある。その美濃国との国境に近いところに、今の犬山城があった。

犬山城は、織田信長の叔父である信康(のぶやす)が1537年に築城した。その後、信康の息子である信清(のぶきよ)が、2代目城主になり、1547年から1564年まで務めた。

信長と信清は従兄弟の関係であるが、その後は関係が悪化して、信清が信長に追い出されることになった。

それが、1564年のことであり、このとき信清は、甲斐国の武田信玄のもとへ逃れたのである。

武田信玄が、自分の父親である信虎を、1541年に駿河国の今川氏の元へ追放したのは、すでに述べたとおりであるが、信清は受け入れてもらえたのである。

そして、このとき、駿河国の今川義元は、すでに1560年の桶狭間の戦いで、信長に敗れて亡くなっている。ただし、今川氏はまだ駿河国を守っていた。

今川義元の息子である今川氏真(うじざね)が後継者になっていたのだが、実は、この氏真の母親は、武田信虎の娘であり、信玄の姉であった。

氏真が後を引き継いだとはいえ、桶狭間の戦いでの敗戦を機に今川氏から離反した人物がいた。

その人物こそ、三河国の徳川家康であった。







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