法の下に生きる人間〈第46日〉

日米和親条約が1854年に結ばれて、日本は初めてアメリカと法的関係が生じた。

それから、100年も経たないうちに、日本はアメリカと戦争をすることになり、1945年には、米軍によって広島と長崎に原爆が投下された。

この現実を目の当たりにした当時の人々が、終戦後に結ばれた日米安全保障条約に危機感を抱くのは、自然な感情といえるだろう。

1951年、つまり日本が第二次世界大戦の敗戦国となってから6年後、サンフランシスコ平和条約が結ばれた。これによって、日本は主権を回復し、国際社会へ復帰した。連合国軍による占領は、条約発効をもって1952年4月28日に終了した。

だが、沖縄や小笠原諸島は引き続きアメリカの施政権下にあり、返還されたのは終戦から20年以上も後のことだった。

そうした状況が作られたのは、サンフランシスコ平和条約が結ばれたのと同じ日に、日本政府とアメリカが日米安全保障条約を結んだからである。

その9年後には、いわゆる新安保条約(当初の日米安保条約を改定したもの)が締結されるのだが、この締結の前年から反対派の抗議運動が大きくなり、いわゆる安保闘争に発展したわけである。

当時の内閣総理大臣は、岸信介であった。今は亡き安倍晋三の祖父にあたる。安倍晋三の父であった晋太郎氏が岸信介の長女と結婚し、二人の間の次男として安倍晋三が生まれた。

岸信介が内閣総理大臣だったとき、国民がなぜ安保条約に危機感を持ったのかというと、第二次世界大戦のA級戦犯として裁かれた東條英機が内閣総理大臣だったときの閣僚だったからである。国務大臣と商工大臣を務めていた。

また、岸信介自身もA級戦犯の容疑者として取り調べを受けたが、絞首刑を受けた東條英機とは違って不起訴となった。

それだけではない。釈放後は、アメリカのCIAのエージェントとしても活躍する。総理大臣になったのは、その後のことである。

だからこそ、アメリカの都合のよいように日本はまた戦争に巻き込まれてしまうのではないかという懸念が起こったのである。

だが、そもそもサンフランシスコ平和条約と同時に結んだ日米安全保障条約が、なぜ改定されることになったのかを私たちがどれだけ理解しているだろうか。

日本に何かあったとき、アメリカは日本を守ってくれるという「防衛義務」は、当初の安保条約には明記されていなかったのである。

当時の内閣総理大臣であった吉田茂は、条約調印時にこの点について懸念していたと言われている。

したがって、安保改定は必要だった。

続きは明日である。




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