20世紀の歴史と文学(1936年)

1936年2月26日、恐るべき事件が起こった。

二・二六事件である。

犬養毅が暗殺された五・一五事件は、刺客は10人もいなかったが、二・二六事件は、規模が違った。

皇道派の陸軍青年将校たちが1500人近くの下士官を率いて、政府要人らを襲撃し、永田町や霞が関一帯を占拠したのである。

狙われた政府要人たちの名は、斎藤実元内閣総理大臣(=海軍退役大将)、当時の内閣総理大臣だった岡田啓介、岡田内閣の蔵相だった高橋是清、後に日本がポツダム宣言を受諾した当時の内閣総理大臣になる鈴木貫太郎らであった。

これは、右翼によるクーデター未遂事件だったのだが、未遂に終わったのは、ほかならぬ昭和天皇の激怒が理由だった。

この事件で、前総理の斎藤実と高橋是清は、非業の死を遂げた。

内閣総理大臣だった岡田啓介は、秘書官だった義弟が相手の勘違いによって銃殺され、かろうじて命拾いした。

鈴木貫太郎は、至近距離で銃撃を受けたが、弾が急所を外れていたことや奥さんの機転によって、重傷ながらも死なずに済んだのである。

昭和天皇は、この事件を鈴木貫太郎の奥さんからの一報で知った。鈴木貫太郎は、侍従長を務めていたからである。

信頼している侍従長が瀕死の重傷を負ったことは、昭和天皇の逆鱗に触れた。

そんな状況の中で、陸軍大臣は、反乱軍の趣意書を読み上げに謁見したのだが、天皇は「さっさと反乱軍を鎮圧せよ」と聞く耳を持たなかった。

それでも、陸軍幹部がもたもたして丸一日が経過しようとしていたため、2月27日の昼過ぎに、「私自身が近衛師団を率いて鎮圧する」と迫った。

2月28日、決起部隊の討伐を命ずる奉勅命令が正式に発出された。こうして、事件の収束に向けて事態が動き出し、一部の者は自決し、ほとんどの反乱軍は投降した。

しかし、義弟を殺されて、自分も生きた心地がしなかった岡田啓介総理大臣は、昭和天皇が心配するほどに気落ちしており、10日後の3月9日に内閣総辞職をした。

岡田内閣のあとは、広田弘毅が内閣総理大臣になったのだが、ご存じのとおり、彼は東條英機とともに戦後の東京裁判でA級戦犯として裁かれることになる。

東條英機は、このとき、満州において関東軍憲兵隊司令官を務めていた。

この2人が、二・二六事件の後にどのように日本国民を戦争に巻き込んでいくのか見ていく必要がある。

そして、内閣総辞職をした岡田啓介も、東條英機と対立することになる。

続きは明日である。


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