【続編】歴史をたどるー小国の宿命(74)

事前に襲撃計画が漏れてしまった大塩は、奉行所の役人に捕縛されることになったが、そこを大塩の門弟たちが「真意を確認するから待ってくれ」と時間稼ぎをしてくれた。

その間に大塩は何とかうまく立ち回り、跡部良弼と堀利堅の2人への襲撃は断念し、豪商たちの家を襲撃することにした。

かくして計画は実行に移され、大阪の天満橋付近は火事騒ぎになったのである。この襲撃は、半日ほどで鎮圧され、大塩たちの仲間300人ほどは、ほどなく捕らえられるか、自決した。

大塩は、それから40日ほど逃げ回っており、知人の家に一時的に匿ってもらったが、やがて居所が発覚してしまう。

もはやこれまでと、一緒に連れていた養子とともに自決し、焼死した。

元役人によるこうした反乱が起こったことは、幕府にとって衝撃であった。

しかし、11代将軍の家斉は、その直後に予定通り次男の家慶に将軍職を譲位し、なおも大御所として権力を握り続けた。

12代将軍の家慶は、就任時は45才だったのだが、父親の振る舞いを目の当たりにしながら、苦々しい思いでいながらも何もできずにいた。

そのため、周りの家臣が提案したことについて家慶に意見を求めても、事実上の決定権がある父親が後ろに控えている以上、「そうせい」としか言えず、「そうせい様」と呼ばれていた。

だが、さすがの家斉も年老いて、譲位した4年後の1841年、享年69才でこの世を去った。

目の上のたんこぶだった父親が死去したことで、家慶はようやく自由に発言できるようになり、さっそく改革に着手した。

老中に水野忠邦を任用して、積極的に財政の立て直しを図ったこの改革が「天保の改革」である。

吉宗の享保の改革、吉宗の孫の松平定信による寛政の改革、そして天保の改革が、江戸時代の三大改革といわれている。

ただ、財政改革よりも欧米の動きに目を向けざるを得ない事態が発生した。

1840年、イギリスが中国の清(しん)に南西の沿岸から侵攻し、いわゆるアヘン戦争が勃発したのである。

江戸時代は、薩摩藩が琉球王国(今の沖縄県)を支配下に置いていたので、中国とも交易があった琉球王国を通じて、イギリスの侵略はほどなく幕府にも伝わった。

佐久間象山が、信濃松代藩の第8代藩主である真田幸貫(さなだ・ゆきつら)に仕え、本格的に海防の研究に乗り出したのはその頃である。

このときは、桂小五郎も坂本龍馬もまだまだ幼い年頃であった。今で言うならば、小学生である。








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