唱歌の架け橋(第1回)

現代の私たちが、平安時代に詠まれた和歌を日常的に詠むことは、まずない。

平安時代の人々は、三十一文字(みそひともじ)の和歌に、自然美への感動や望郷の思いなどを込めて、自分の心の中の見えない部分を言葉にして相手に伝えたり、相手と思いを共有したりした。

今の私たちは、数々のアーティストが作る歌を、テレビやラジオ、ユーチューブなどで知り、彼らの歌に共感する輪が広がることで、その歌は多くの人たちに知られていく。

ただ、私たちが当たり前のように口ずさんでいる現代の歌は、戦後の高度経済成長期に全国の家庭にテレビが普及して広まり、その後、レコードやCDなどの記録媒体を通して、もとは西洋音楽が土台にあるメロディーや伴奏に歌詞を乗せて歌うようになったものである。

では、戦前、それもテレビが普及する前はどうだったのかというと、ラジオがあった。

ラジオ放送が本格的にお茶の間に流れたのは、1941年に太平洋戦争が始まり、軍部の情報操作に使われるようになってからである。

国民の士気を高めるために軍歌が作られ、兵士として戦場に赴くことになったら、みんなで軍歌を歌って送り出していた。

日本が敗戦したときの昭和天皇の玉音放送のあとは、『リンゴの唄』が戦後初のヒット曲としてお茶の間に流れた。

ただ、いつから私たち日本人は今のように歌うようになったのかというと、時代をもっとさかのぼらなければならない。

そして、その原点となるのは、明治時代に作られた「唱歌」なのである。

唱歌を広く国民に根づかせるためには、学校教育で取り扱う必要があった。

唱歌を作るためには作詞や作曲の必要が生じるのだが、まだ西洋型教育の導入初期はそんな余裕もなく、当時の文部省は、西洋諸国から民謡を取り入れて、それを日本向けに訳詞して歌わせていた。

20世紀に入ってようやく、日本でも日本人による作詞と作曲が次第に増えていき、各地の学校の校歌も並行して作られるようになった。

代表的な作詞家としては、高野辰之、サトウハチロー、野口雨情、北原白秋らが挙げられる。

作曲家には、草川信、滝廉太郎、岡野貞一、中山晋平らがいた。

唱歌には、平安時代に詠まれた和歌と共通して、日本人の心を歌い上げたものが多い。

四季の変化を感じながら、自然の中でのびのびと成長していく子どもたちに合わせて作られた唱歌や童謡は、大人にとっても昔を懐かしく思い出す歌として広く受け入れられ、長く歌い継がれている。

平安時代の貴族たちが選りすぐりの和歌を集めて歌集を作ったように、日本人の心にずっと残っている唱歌は、今でも音楽の教科書や歌集に掲載され続けている。

20世紀の歴史と文学シリーズの「裏番組」的な内容となるが、今日から唱歌の架け橋シリーズを始めることにする。

過去から未来へと受け継がれる唱歌を味わっていただきながら、誰が作詞や作曲に関わったのか、どのように作られているのか、お楽しみいただければと思う。


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