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Ettiella 2. 鳥と魚(LES OISEAUX ET LES POSSONS)

どうも。ちょっと書きたいことを頭で整理するのに時間がかかってしまい、
1日空いてしまいました。そしてちょっと難解な話になりそうだなぁと思って、どうやったら上手に伝えられるだろうかと考えています。

今日ここで書きたいことは「このカードにはやはり蛇が描かれるべきである」ということなのですがまず前置きを聞いてください。

この”La La La エッティラ”は、占いにおけるリーディングの参考になるマガジンではなく、そもそもカードの存在が我々に知らせようとしていること、その「アルス(叡智)」とは何か、を深堀りしていくマガジンになりそうです。なので、このカードに「蛇」が描かれるべきであろうとなかろうと、占いそのものにおける意味合いは変わりませんし、タロットを本職になさっている数多の方々の解釈と思想を侮辱するものでもありませんのでご理解いただけると幸いです。


占いにおける意味が変わりません、というのは「設定」が大切ということで、このカードの占いにおける意味というものを占う側が設定しておけば、神託はその設定に従って降りてくるということです。
それは例えば時系列を設定する時に「この場所が1か月後」と決めるのはこちらで「今から聞くのはConsaltant(相談者)の結婚についてです」と設定するのもこちらです。神託はその設定に従って降りてきますね。
なので、カードの意味の違いは占いにおいて”把握さえしていれば”あまり重要ではありません。例えば先日の「カプチン院修道士」がライダー版では”隠者”として割といい意味を持つけれどエッティラ版では”裏切り者のユダ”を意味するとして、そのどちらで行くのかを「設定」していれば神託はそれに従って降りてくる。

なので一番よくないのは、どうして同じカードでこう意味が違うのだろう、と考えて、どう解釈すべきか迷い、どちらかはインチキの解釈なのではないかと疑っていることです。そうするとブレた設定のところに神託が降りてしまいますから、じぶん自身がそのメッセージをどう解釈すべきかますますわからなくなってしまいます。

この「どちらかが正しければどちらかが間違い」というこの考えこそ、真実から物事を遠ざけてしまいます。どちらもに隠れている真実を抜き出して掛け算にすることができるのに、正しいと間違いに分けてしまうことによって、間違いは嘘、になり、真実が半分になってしまうからです。

ちょっとここから占いというよりは「叡智そのもの」の話になっていくので、もし難解だったらごめんなさい。今日語ることが、予想に反してかなり核心的な部分になってしまいそうです。

今日考えていたのはタロットの歴史のことなのですが、18世紀にクール・ド・ジェ・ブランが突然、賭博用に作られたマルセイユタロットを見て「これは古代エジプトにおける叡智の書だ!」とハッとして、その自身の考えを「原始世界」という著書に発表、それに共鳴したエッティラ(アリエット)が書物に基づいてグラン・エッティラを製作、タロットエジプト起源説が世にでます。
けれども、その後、エジプトの古代碑文などが解析され、エジプトから伝わったはずなら描かれているはずのエジプトの古代文明にとって重要なモチーフなどがマルセイユタロットには描かれていないことから「エジプト起源説をインチキ」だとする考えが今主流なものになっています。

わたしはそうではなくて、長い歴史の中で時々、伝聞によって曲がっていく歴史を修正する動きが”何かしらの存在”によって行われるということだと思うのです。例えばグラン・エッティラですら、起源はどうあれエジプトのトートの書を元に、ヘルメスを元に作られたとするならば、絶対に「鳥と魚」には「蛇」がいなくてはいけない。なぜかというとトート神は、エンキという神(地球外生命体のアヌンナキ)の息子であり、それらの書ーー天地創造の歴史ーーはそれを託された父(エンキ)とその家族の歴史を現すはずであって、ならば父親を現す「蛇」を絵から取り除くなどあってはならないのである。

このことは詳しく後ほど話しますが、最初のグラン・エッティラには蛇が描かれているのに、シリーズ3弾目の「BOOK OF THOTH”ブックオブトート”」(Oracle des Dames”ご婦人の偉大な信託”ともいう)では蛇が消えてしまっているというのは、伝承と孫引きの危うさを現しています。
(もし”ご婦人の偉大な神託”では故意的に蛇を消したのだとしても)

(⤴︎最初のエッティラ)

水木しげるは出雲の人ですが、ある時夢に古代出雲の青年が出てきて「歴史が歪められているから本当の古代出雲のことを書いて欲しい」と頼まれて、あまり毎晩出てくるものだからと「水木しげるの”古代出雲”」を描いたと言っています。水木先生の場合はずいぶんアプローチがストレートだったと思うのですが、笑、クールドジェブランが、マルセイユタロットを見て「ががん!」と何かを強く感じた、というのはきっとそのようなことじゃないかなとわたしは思うのです。「トートの書」を見直して欲しい誰かからのメッセージだったのではないかと。
だからと言ってマルセイユ版がインチキではない、ということもわたしは言いたいのです。それらは長い歴史の「のれん分け」の中で、コンセプトが違っていったものなのではないかなと、わたしは思います。

例えば初代親方は「とんこつ命」のラーメン屋で、とんこつを生かすためには細麺がテッパンだと考えてた。そして「のれん分け」をした2代目は、初代の「とんこつ」へのこだわりを十分理解した上で、だったら太麺の方がそれを生かせると考えた。初代親方もそれをよしとした。とんこつコンセプトで繋がっていたからだ。ところが3代目あたりから直接初代と関わっているわけではないから「とんこつ」に対する重要性が薄れていく。そんな時もし2代目が急死した場合(仮に初代はもう死んでいるとする)、3代目は2代目の「太麺」を守る方向で新たなやり方を模索し、とんこつを辞めた。
こういうことが、100年も立たない間にエッティラ版から蛇が消えていることを思うと、ありうる話だとわたしは思っています。

マルセイユ版にエジプトの重要なモチーフが出てこないのはその重要なモチーフ(仮にトート神としましょうか)が「とんこつ」だとした場合、伝承の過程で消えていったかもしれないし、あとエジプト文化的なもの、を盾に話し合うのもわたしはあまり違うと思っています。
例えば一つの、同じ思想の家族がいて、彼らが世界各国に散らばっていったら装いは当然バラバラになっていく。例えばトートの書をモチーフにするエッティラ版を日本人に広めようと思った時に、置き換えて作ることもある。「カプチン院修道士」が日本版では裏切り者として「明智光秀」の絵になるとか。笑 (明智光秀は”裏切り者にされた”という話もあるのでまさにピッタリですね)
タロットって多大にその傾向があると思うのです。なのでヨーロッパで育まれたタロットからは次第にエジプト的な要素が消えていくということもあるでしょう。”置き換え”の功罪として。

また、もしかしたら「何か」がクールドジェブランにメッセージを送る「ゲート」として、イメージを重ねやすい「絵札」つまりマルセイユタロットを神託のアイテムに使っただけであって、マルセイユタロットと、エジプシャンタロットは、そもそも全く別のものだったかもしれません。

その場合、エッティラが、元々あるはずのタロットの意味を破壊した、というのは実は全然違っていて、クールドジェブランはコップに入った紅茶を見て「そうだ世界にはコーヒーという飲み物があったことを伝えなくては」と雷に打たれたのかもしれない。”コップに入った飲み物”というヴィジュアルが何かをクールドジェブランに想起させ、それを忠実に理解したエッティラはコーヒーを製作したのです。それは似て非なるものというか全く違うものなのだから仕上がりは全然違うものになるし、それを「紅茶じゃない!」と非難するのはナンセンスというものです。

わたしが言いたいことは「起源がどこか」なんてどうでもいいということです。起源がどこか、を軽んじているのではなくて、起源を重要とする理由は、真実に近くありたいからだと思うのです。”発祥”にこそ真実があるからです。その糸をたぐりよせて源に近く行為に意味がないとは思わないですが、時々「何か」が「誰か」を使って、”修正”そして新たに”発祥”することがあるということです。つまりグランエッティラというのは18世紀に再び「発祥」したものであって「マルセイユタロット」の続きではないとわたしは考えている、ということです。
そして中途半端な歴史を反映しているものよりも、わたしは、新しくとも超古代を反映しているものを探しています。

つまり、キリスト、エジプト、ユダヤ、それらで語られている「天地創造」のその前です。いえ、それらは同時に同じことを語っています。
それはつまり超古代の地球にニビルという星からアヌンナキという地球外生命体が飛来して、人間を作った。そこからアダムとイブの物語が始まるわけでそれが形を変えてしかし概ね同じような話として世界中に神話として残っている。なので、わたしが大切にしているのはそれらが散り散りになってエジプトやイスラエル、日本や、他の国々に移動していったことよりも、その散り散りになる”前”、そこに真実があると考えているのです。

この「鳥と魚」が「蛇」であり「エンキ」というアヌンナキを指しているということがわたしには重要なのです。

つまりわたしが知りたいことが「グラン・エッティラ」に描かれているというのは、わたしにとって有益な情報がその78枚の絵札にあるということで、
それはトートの書に繋がりたいということになるのでしょう。
わたしはずっとアトランティスを掘り下げていて、それはエメラルドタブレットに繋がるそしてヘルメス(トート神)に繋がる。そして何を知りたいのかと問われたら錬金術の極意なのだと思います。
だからわたしはじぶんが扱いたい様々なことを見るのにエッティラを使うわけですが、それはその他のタロットが間違っているとかインチキとか言っているのではなく、エッティラを引くことはエメラルドタブレットを閲覧することと同じだからなのだと思います。

同時にわたしはすべてのタロットを、繋がったものではなく、すべてバラバラの分断されたものとして扱うべきではないかなと思っています。なぜならそれはラーメン屋さんんの理屈と同じで、のれん分けであってもそれらは「チェーン店でない限り完全に別物」だと思うからです。

だからカードたちを独立した個性を持つ、完全に別なものとしてわたしは扱うべきだと考えていて、そう考えた場合、コンセプトも解釈も、バラバラで当たり前ということです。だって独立した別なものであるから。
同じ人が製作者でも絵を描く人が違えばその人の解釈やニュアンスも入ってきます。そういった個性がカードには色濃く出ると考えると、
この「ブック・オブ・トート」(写真下)の「鳥と魚」を扱う時は、
蛇の要素は基本的には入れずに読み解くのが良いだろうと思います。
(必要と感じた場合は当然入れる)
なのでわたしが最初に言ったように「蛇がいるかいないか」は占いとは関係がないのです。でも歴史とは関係がある。

ちょっと長くなってしまったので、
「蛇とエンキ」についてはまた明日続きを書くことにします。
(だからってどうにもならない話なのですが、面白い話ではあると思うので、オカルト神話として、興味がある方はお付き合いくださいませ)

それでは、La La La ETTEILLA!!!

嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ