la la la 42. 社会貢献は「べき」から解き放たれて(By ラム子)
こんにちは。大きな被害をこうむった西日本豪雨被害。そしてそこからの極暑で被災地は、本当に深刻なダメージを受けていることと思います。
こういった時に、息もつかせぬスピードで現地入りして、ボランティアをしている人、本当に頭が下がる気持ちですし、同時に「わたしってば何をしているのだろう」という考えになりますよね。
今回ボランティアをされた方へのインタビューで印象的な言葉があって、
それは「東日本大震災の時に何もできなかった、というのが自分の中の大きな”宿題”としてずっとあって。同じ広島ですが自分は今回被災しなかった。今こそ自分は先送りしていた宿題をやる時だと思った」という言葉でした。
その方は女性で、娘さんと一緒に現地入りしていました。
この女性の言葉、わかるなあと思う方、多いと思います。
「何かしたい」そう思えばすぐに現地に入って何かすればいいのに、
いろんなことを逡巡して考えたり、あとはじぶんの”今”がその時手一杯だったりして、結局何もできていない・・・そんなことってありますよね。
で、ふと心が動いて何かをしようと思った時に、いやでもだったらあの場所の方が深刻な被害だったんじゃないか、とか、あの時見過ごしたのに、
今こちらをお助けするっていうのは、実のところどうなんだろう、とか、
また考えてしまう。あと、あまり言いたくないことですが、募金や寄付とかって、本当にちゃんと被災者に反映されるのだろうかとか、少し疑ってしまったりなんかして。
そういう不器用さんの気持ち、わかります。そして結果、
(うだうだ言い訳ばっかり言って結局じぶんは何も動いていないのだ...)
と落ち込んでしまう。
そういう時わたしを励ましてくれる言葉があります。
それは歯医者さんで読んだNY Timesか何かの記事だったと思うのですが、カンボジアの子供を養子に取ることになった報道カメラマンか誰かーーカンボジアに何度も行って現状を改善するために生きている人が初めて養子を取るような話だったと思いますーーがやっぱり意地悪な質問をされ「どうしてこの子なのか」「この子だけを救ってあとは見捨てるのか」「たった一人しか救わないのなら偽善じゃないか」などと言われた時に返した言葉です。
「なぜその子だったのかと聞かれても、それは ”縁” としか言えない」
彼はそう答えました。
世界を大きく捉えたつもりで論じてばかり、実際に何もしない人がよくそういう公平論というか、何か良い手助けを「半端なものはかえってよくない」ようなそんなことを言いますが、実際「半端じゃない状況」って政治でだって作れた試しがありません。保育園にだって入れる人と入れない人はいるし、今回の災害でも、同じような浸水なのにたった50センチ違うだけでお金が受けられたり受けられなかったりします。だとしたらば、
"今すれ違い様にこの人が転んだので" というような「巡り合わせ」の中で手を貸して何がいけないのだろう。
この「縁でしかない」という言葉は、わたしに物事を平たく考えるのを止めさせ、なんでもいいから「その時そう思った」ことから動くような動線を作ってくれました。
とは言いつつ、それらは同時に「違和感」を感じてしまうと立ち止まってしまう、ということも含みます。わたしも最初、挨拶のように「西日本豪雨の被害に遭われた方に心から・・・」のような切り出しでラララを書くのは何かパフォーマンスみたいで違う感じがする、と不器用に悩みました。
そのような書き出しで始まる他のブログをパフォーマンスと思っているのではありません。じぶんはこの災害に対してまだ何もできていないくに・・・と思ったからです。
でも、心が動いたタイミングで素直にそうしよう、と思って今このラララを書いています。お伝えしたいことは、社会貢献や環境への配慮、または被災地への支援やボランティアは、心が動いたタイミングで、どんなことでもいい「べき」から解き放たれて、あなたらしく、ということです。
わたしは今、自宅の電気を「アクアエナジー」という水力発電にしています。でもそれは自分が龍とか水とかアトランティスとか人魚に、すごく縁深いものを感じていて、それがしかも環境にも優しいなら、というような感じでさらりと始めたことです。東日本大震災の時は、避難所に簡易パーテーションを作る工房が寄付を募っていたのでそこに寄付しました。具体的なイメージがすごく湧いたからです。そしてそれは、もしじぶんが被災したなら、とても嬉しいものだったからです。こうやって書いてみると「たいしたことしてないな」って感じでもあるのですが、そう考えないで前に進むことにしています。なるべく風化せず、継続してやっていけることを、小さくともずっとやっていこうと思っています。「忘れない」ということを大切に。
感じ方が人それぞれ違うから着目するところも違って、だからいろんな方向に支援があって、それで良いと思います。いわゆる「インフラ」を直ちに支えてあげたいと思う人、
わたしのように「命は助かった」ということでいろんな困っていることを「命を落とした人に比べたら・・・」ということで言えない人たちの、心のケアにつながるようなことをしたいと考える人、情報を広めることを手助けしたいと思う人、今、局所的にではなく、途切れず持続的にできる支援は何か、それを考えて準備をしている人。
いろんな形があって、それらに「べき」はありません。
いや厳密には順序や凹凸は出てきてしまうのだろうけれども、それはまた、現場を見つめながら修正していけば良いのであって、
「しない方がいい」ことって基本的にはないと思います。
例えば善意で拡散していたツイートがデマだったと知り、とても落ち込んでもそれはやり方の話で、「何かしようとするんじゃなかった」ということではないのです。「何かしようとすること」が大事だと思うのです。
小さな一歩でもできることから、あ、やろう、と思った時に。
ささやかな ”縁” を大切に動いていく。じぶんはちっぽけなのだから。
広島も大変だけど、熊本だってまだまだ復興していない、とか、東北にもまだ仮設に住んでいる人がいる、とか、
救えない範囲のことを考えてしまうと何もできなくなってしまう。
だからちっぽけなじぶんが、できることから、すこしずつ。
そう、じぶんに言い聞かせながら。
一緒に前に進んでいきましょうね。
それではらるらるらん♪
ラララ世界で会いましょう☆
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<ラム子より不器用さんたちへ>
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