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開巻有得〜自分を取り戻すための研究〜

いつのまにか
自分の主導権が他に渡っていたことに気づき、

ずっと抱えていた欠乏感が膨らんで
「自分の人生を生きているという自負心」を
取り戻すことの必要性を感じていたときに、
私はこの本と出会いました。

熊谷晋一郎著
『当事者研究 等身大の〈わたし〉の発見と回復』

誰でも生きていればたくさんの苦労に直面する。
苦労に直面し、そのことを自覚している人を
その苦労の当事者と呼ぶことにしよう。
当事者になったとき、
私たちはどのようにしてその苦労と向き合うだろうか。
苦労を出発点に、他者に向けてそれを表現し、先行事例を調べ、
分かち合い、解釈や対処法をともに考える。
この一連の過程こそが、本書が扱おうとしている当事者研究である。

3頁 第1章 当事者研究の誕生

だれにでも「苦労」はある
という言葉に、
励まされるような感覚になりました。
それがこの本を読んでの感想です。

苦労をしたいと切望した時期

私には、幼少期から青年期ぐらいにかけて
「苦労がしたい」と思っていた時期があります。

当時は漠然としたものでしたが
いくつかの経験を重ねて
当時望んでいたことを特定できるようになりました。
正しくは、「苦労をする(=自分の生命力で生きる)」ことで
「自分が生きている感覚を取り戻したい」だったんだと思います。

「苦労」が何か、
特別価値のあるもののように感じていた節もあります。

自分がその時に困っていることを共有した相手に
「そんなこと、〇〇に比べて恵まれているんだから文句を言うな」
と無下にされた記憶がこびりついていると、
「自分には(まだ)余裕があるんだから、
目に見えて大変そうな他者ひとに協力しなきゃ」
という発想で他人を優先するようになるのですが

その時々で他人のために動いている間も、
「いつまで経っても自分の問題は解決されない」という感覚が
内側で燻っているんですよね。

こんなことしている場合なのか、
私の問題にはだれも協力してくれないのに

みたいな。

被害者意識って、
どこか優越感と似ている部分もあるように思います。

手を差し伸べられると、
「私の問題を奪われる」みたいな焦りが生じた経験もあります。

もしかすると、
この被害者意識が、
「自分の荷物にしがみつく」心理の
出発点かもしれません。

なんかびびびと来たので
思ったことを言います。

何か強いメッセージを感じる出来事が起きたとき
自分がその出来事から得られた学びを自覚するまで
その出来事に関する感情や記憶は残り続ける。

…もったいないから。

せっかく起きた出来事を学ばずにスルーするなんて
もったいないから、大事にとってある。

学びのヒントである感情を
「被害者意識」として濁したまま、
他人に投影することを「根にもつ」と言う。

他者との関わりではじめて人間は成り立つと言いますし、
やってみると、他者のために動くことの方が愉しいです。

自分の荷物を手放さないから重いだけで、
他者の荷物だけ背負っていれば気楽なもんらしいです。

自分の荷物だって
しがみつかずに他人にシェアできれば、
面白いなにかに変わるかもしれない。

「抱える問題」が、
その人そのものなわけじゃないんだから。

コミュニケーション障害は、関係の問題のはず

本書を読んで
この認識ってすごく大事だな、と思ったのが

以下の図です。
(Canvaでさくっと作ってみました)

コミュニケーション障害は個人が抱えている問題ではなく
コミュニケーションに障害が生じていているという現象

なにか「悪いもの」をスケープゴートになすりつけるな

共感されず否定された妄想は固くなるが、
骨格のレベルで共感され、
同時に現実のレイヤーから客観視された妄想は、
柔らかく、対話や変化が可能な何かになる

当事者研究における当事者は、
マイノリティだけを意味するのではない。
専門家も多数派も、すぐに妄想にとらわれてしまう脆弱な存在としての
当事者なのである。ゆえに当事者研究は、皆にひらかれたものなのだ。

215頁 終章 当事者研究は常に生まれ続け、皆にひらかれている 


私が特に惹かれたのは、
巻末の注釈にあった親鸞聖人や『歎異抄』への言及です。

親鸞聖人の論理は、死後の奇跡や僥倖を諭した当時の宗教界にあって、
それらに真っ向から対立する生への宗教だった。
あるがままの人間実在を正面から見据えた宗教だった。
それが異端の宗教と言われる所以なのだ。
善しとする行いをすれば善い結果があり、幸せにもなれると信じ、
疑ってみる者などだれもいない。社会に役立つ人物たれと懸命に働き、
せっせと金を蓄え、よき家を築く、それが善きものの見本であり、
今日の中流意識を生んだ土台にもなっている。
親鸞聖人は、「歎異抄」のなかで
その偽善性をことごとく暴いて見せてくれた。
悪人こそ人間の機根、本質なのだといって。

善人意識を与えることによって生まれる倒錯した幸福感。
そしてそれを土台に成り立つ国家・社会とは、
九羽のうちから一羽のニワトリをスケープゴートとして
つつき出さなければ自らの優位性が保たれないのだ。
逆に言えば、一羽がいるからこそ残りの九羽の安寧と秩序が保たれる、
というわけだ。
自己を凝視し、自己を内省し、自己に絶望し、
そこから自己を主張すればいい。
叫ぶがいい。叫びは大いなるものほどいい。

自己の本質がわからぬものになぜ敵の本質が見抜けようか
自分が脳性麻痺者であると自覚してこそ、
己の煩悩の奥底にうごめく地獄を見極めてこそ、
差別する者、貶む者の本質が判る

とするならば、何を嘆くことがあろう。
脳性麻痺者は脳性麻痺者に徹し、
健全なる国家・社会、健全なる人間を問い返し、告発するがいい。
脳性麻痺者というあるがままの、
人間実在の姿をまずさらけ出すことからすべての変革は始まるのだ

歎異抄は親鸞聖人の説いた「悪人正機説」である。

巻末 注7〜8頁(13)岡村青「脳性マヒ者と生きる 大仏空の生涯』

この考え方に共感を持っているんだと思います。

私が好きになる人の多くは、
自己欺瞞を突き破って
「実在の姿をさらけ出すこと」ができる人です。

だからこう言う言葉を読むと、
体の内側が熱くなってくるんだと思います。

2024年2月13日 拝


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